酔生夢死

昔、「酔生夢死(すいせいむし)」という言葉を、無知蒙昧に使っていました。
例えば、酒席での仲間たちとの談論風発では、「俺は、酔生夢死の生き方をしたいよ。
つまり、毎日をほろ酔い気分のように愉快に生き、いつの日か、まどろみながら夢の
中に消えていくんだ」と言った具合に。
ところがある日、酔生夢死の意味が「いたずらに一生を終えること」と知り、唖然。
厚顔無恥の駄弁を想い出し、羞恥の念で身体が熱くなりました。
徒(いたずら)とは、「無益、無用、つまらないこと、むなしいこと」。
折角この世に生を受けながら、いたずらにたった一度の人生が過ぎていくとしたら。
想像するだけで身悶えするほどの焦燥に駆られます。

話は少しそれますが、私が厚生労働省に勤務し、職場の野球部の監督をしていた頃、
「3C野球」というスローガンで部員を鼓舞していました。
かって流行った、三種の神器(カー・クーラー・カラーテレビ)のことではありませ
ん。
つまり「chance(機会)をとらえ、果敢にchallenge(挑戦)し、状況をchange(好転)
させていこう!」という意味合い。
私の他愛ない造語ですが、これは野球の試合に臨む場合だけに限らず、日常生活、い
や人生全般にも通じるキーワードがあると推断し、若い部員(私が断然年上だった)
に投げかけていたのです。
何故なら、殆ど全職員にも言えることですが、特に若い職員は厳然たる巨大な官僚制
組織の中に埋没し、日夜、徒労ともいえる激務に追われて日々を過ごしており、そう
したルーチンな日常が、余程しっかりとした主体的な行動をとらない限り、連綿と続
くことが明白だったからです。

「何もしなかったら、何も変わらないよ。退職するまで君の人生はそんなものだよ。
安定した職を得て安逸が保証された代りに、籠の中の鳥の様に、定年まで型にはまっ
た生き方を強いられ、たいした感動や喜びも無く日々は過ぎ去っていくよ。
生きるためには、働いて金を得なくてはいけない。そのためには自分の最も大切な時
間というものを提供し、行政組織の目標達成のため、そして職務を全うするために、
没個性的に働かなくてはならないかもしれない。
しかし、ヒエラルヒーが貫徹し、色々と管理され規制された日常の中でも、機会を見
つけ、主体的な発言と行動をとれば、意外と仕事や人間関係が面白くなる可能性が出
てくる。
唯々諾々と受動的に毎日を生きるのではなく、能動的に生きること。それが3Cだ!」
その様な趣旨でもあったのです。

私自身、若い頃は、つまらない仕事や無駄とも思える作業、そして単調な日常が続く
と「早く終業時間が来ないか、早く週末にならないか、早く大型連休が来ないか」な
どと、いたずらに時間が過ぎることばかり考えていました。
「金はなくても、時間というものは幾らでもある。時間がたてば、そのうちに良いこ
とがあるだろう」という稚拙な思考が、心を占拠していたからでしょう。
でも、結婚した27歳頃から「こんな毎日で、果たしていいのか?たった一度の人生な
のに、こんな生き方でいいのか?」と悩み始め、転職を念頭に密かにコピーライター
養成学校に通ったりしました。
そして、当座だけでも「本省の労働条件を少しでも改善しなければ、お先真っ暗だ。
せめて自分自身の周囲だけでも変えていかなくては」との思いから、労働組合やサー
クル活動を積極的に行うようにしたのです。
「職場に居づらくなったら、退職すればいい」と腹をくくって。
結局、56歳で退職するまで、厚生労働省で遣り甲斐のある仕事と、気心の知れた仲間
たちに恵まれ、悔いのない日々を過ごすことが出来たのです。


酔生夢死。
67歳になる今でも、こだわりたい言葉。
そのことを若い人たちに伝えたく、まさに駄弁を弄しました。
「生死」の問題は「酔夢」ではなく、人類普遍の現実的課題なのですから。

それでは良い週末を。