東井朝仁 随想録
「良い週末を」

11月10日の青空に想う(2)
前回の続きです。

11月10日は、天皇の即位を祝うパレード(祝賀御列の儀)が行われた。
秋晴れの空の下、皇居から赤坂御所までの間、オープンカーの天皇・皇后両陛下が沿道の
人々に笑顔で手を振り続けられたご様子が、テレビから克明に放映された。
私はそれを観ながら、一種名状しがたい感慨に浸っていた。
とりわけ雅子さまが、そっと涙を拭われている御姿には、心が熱くなった。
まだ「適応障害」の療養途上かも知れないが、それでも「ここまでお元気になられたのか」
という感動が胸にこみ上げていたからだった。
その日の夕方、前回に触れたとおり雅子様との接点があったM氏に電話。懐かしく歓談した。
そして、同じイニシャルのM教授のことを思い浮かべていた。

M教授は、聖心女子大学の教授。東京大学文学部宗教史学科を卒業し、ハーバード大学大学
院で「世界宗教の比較研究」を専攻。博士号を取得されていた。そして天理教の教理研究の
第一人者であり、教団の精神的指導者でもあった。
私がM先生と初めてお会いしたのは、1987年(昭和62年)、先生が54歳、私が40
歳の頃。
当時の私は、厚生省の保健医療行政に携わり、保健予防に関する認可法人の指導監督や保健
衛生施設・設備の整備費補助業務を、充実した気持ちで行っていた。
だが、私生活では人生最大のピンチに見舞われていた。
それはM教授にお会いする2年前から、私共(厳密には、父が代表を務める宗教法人「天理
教甲都分教会」という天理教組織の末端法人)と、巨大宗教団体・天理教団(厳密には、甲
都分教会を包括する上部組織の宗教法人「K大教会」。さらにそれを包括する天理教団)と
係争中で、私は始終気が休まることなく、休日も弁護士との打ち合わせや信者役員への説明
などで飛び回っていた。
私共が原告となり、K大教会長を訴えて始まった民事裁判だった。

私共の主訴は、極めて単純。「甲都分教会の敷地の名義を、K大教会の先代会長の個人名義
から、建物と同様に宗教法人・甲都分教会にすること。真正な名義回復をしてほしい」とい
うこと。
なぜ、個人名義になっていたのか。それは、昭和27年、疎開先の滋賀県から一家で上京し
た父が、戦前から懇意にしていた信者さんから、その人の目黒にある400坪の土地と、2
階建ての建物の購入を善意の値段で勧めらた。
そこで建物は甲都法人の名義で購入したが、土地の費用の一部が足りず、母が北海道の実家
に頼んで借用して支払うこととなった。だが、父母が事前報告に伺った滋賀県のK大教会の
幹部たちは、「そんな用立ての筋合いはない。こちらで立て替えてやる。その代金を月々返
済して完済したら甲都の名義にすればいい。それまでの間はK大教会長の個人名義にしてお
くように」と、言下に指示されたのだった。K大教会の思惑は色々あったそうだが、信仰上
では親(上部者)の言うことは子(部下)には絶対。父母は腑に落ちなかったが、わかりま
したと返答して帰宅したとのことだった。宗教社会では一般社会のように念書とか契約書な
どはなく、すべて信頼に基づく口約束で成立。
そうした信頼は信仰者の基本の基。(結果は反故にされたが)
それから父母と実直な信者さんたちは、長年、刻苦精励して月々の返済に励み、ある信者さ
んは自宅・田畑を売って一家で上京。東京の教会敷地に住み込むまでした。こうした多くの
者の丹精により、昭和30年頃、K大教会の会計担当役員から「甲都の借金は済んだ」と明
言された(返済資金帖あり)。そこで、晴れて名義変更のお願いを大教会長に申し出たが
「教務多忙」で何度も門前払いされ、他の幹部にお願いしても「土地は逃げるものではない。
そのうちで、ええやないか」と聞き入れられず、昭和48年頃からは、大教会長が「私は東
京に土地がある」「甲都は私の土地を勝手に使って、地代も払わずにいる」と周囲に語るよ
うになっていた。そして名義変更が延ばし延ばしされているうち、大教会長が逝去。その後、
大教会長の娘の婿養子に入った後継の若い大教会長に、名義変更のお願いを再三するも、
「土地のことは良く知らないので母親(義母)に聞いて返事をする」と返答されるだけで、
名義は故人のままの異様な状態が続いた(その間も、税務署には、都議や区議などと親しい
父の奔走で、土地建物は法人の宗教活動用固定資産とみなしてもらい、固定資産税は非課税
扱いに)。そうした状態が続く中、父は病に倒れ、病床にありながら死の際までK大教会に
名義変更を懇願していた父は「もはや、これは信仰上の問題ではない。一般社会の法律に則
って、裁判所で客観的に真正な名義回復の判断をしていただく。甲都の法人名義にしなくて
は、今まで丹精してこられた信者さんたちに申し訳ない」と覚悟。懇意の弁護士に民事訴訟
を依頼し、裁判が始まった。だが、ほどなくして眠るように逝去してしまった。
すると、大教会は「その土地はK大教会長の名義で会長家の所有だから、売却する。甲都は
解散する。東井家は出ていくように」と高圧的に宣言してきた。長い困難の歳月が流れての、
酷い仕打ちだった。
「信仰上、子供(下位者)が親(上位者)に背くとは何事か。子は親の言うことに素直に従
うものだ」という理屈(教祖は必ずしもそうは言っていない)を盾にしたものだった。

国内外では宗教同士の戦争や諍いが絶えない。宗教団体内の権力と欲得の絡む争いも多い。
私は教条主義の政党や独善的な宗派・教団には、若い頃から入る気持は一切無かった(注・
2013年2月28日「私のスタンス」をご覧ください)
ただ、どの政党もどの宗教も、当初の崇高な理念は「人を救う」ことにあったと思う。
それは素晴らしいことだ。亡くなった私の両親も、他の宗教の悪口は一切言わなかった。
だから私は、どこの神社でも寺院でも、訪れた時は必ず手を合わせてお参りをしている。
私は両親の信仰を見ながら育ち、神に手を合わせて生きてきた。
どの宗教も尊い。しかし、人が集団を作り、組織を作って宗派・会派・教団を作ると、必ず
人間の権力欲・物欲・金銭欲などが生まれる。それは人間の業(ごう)であろうか。天理教
もそうだった。
信者のための宗派・会派・教団が、宗派・会派・教団のための信者となってしまう。

話を戻して、長くなるので端折(はしょ)ります。
M先生にお会いした1987年(昭和62年)から、私共の係争にも変化が表れてきた。
結論を言えば、M先生と、先生を紹介してくれた当時の羽根田武夫氏(石亭グループ会長)
のお二人に、私共(甲都)の代理人として天理教の最高指導者やNO2などの幹部と何度も
会い、事の本質を説明・説得されるなど、有形無形の支援をしていただいた。そして
1989年(平成元年)12月に、この極めて解決困難な暗黒の世界の係争事件は、最終的
に裁判所の手も借りず、奇跡的な解決(和解)をみたのだった。
(注・HPから、2009年12月3日「本郷菊坂」と、2010年「本郷菊坂(2)」を、
ご覧ください)
事後、ある税務署長が、「個人が、タブーと言われる巨大宗教を相手に係争したケースで、
対等和解したケースは、日本では初めてじゃないですかね」と、驚いておられた。
係争が解決して10年後、驚くニュースが伝わってきた。
K大教会の、歴史的で荘厳な木造建築物の大神殿が全焼した。
関西のテレビや新聞は当然のこと、東京のテレビでもそのニュースは流れた。
私は余りの驚きに、しばし呆然としていた。
「神の計らいなのか・・・・」と。

M先生は書籍も随分出された。そして既刊もさることながら新刊が出るたびに、一筆揮毫さ
れて贈呈してくれた。
「宗教心理学」(東京大学出版会)、「現代の苦悩と宗教」(創元社)「本居宣長の思想と
心理」(東京大学出版会)等々。ハードカバーの「これからの人間の生き方」(道友社)の
表紙の裏には、「平成4年2月23日・心魂を磨き霊性を高める。それが、神の力をいただ
く道」と丁寧な筆致で書かれ、署名してある。
その先生は、2010年(平成22年)3月にお亡くなりになられた。

係争が和解した数年後、M先生は教授としてこう呟いておられた。
ちょうど、雅子様などの何人かのお妃候補が取り沙汰されている頃だった。
「皇太子様のお妃候補の件でね、いま大変なんですよ・・・」と。
聖心女子大学の教授として、内外の信望が高かった先生は、宮内庁などの筋から何か依頼さ
れていたのだろう。
だが、それ以上の具体的なことは一切話されなかった。
11月10日。雅子様の幸せな笑顔のパレードを観ながら、この青空の上からM先生が優し
い眼差しで私たちを見守っておられるような気がしてきた。
そして私には、きっとこう言われていると思った。
「上っ面だけでは、駄目ですよ。心魂を磨けば神が働いてくれますよ」
来年は先生の没後10年祭。
本郷の交差点の「三原堂」で、先生の好きな大学最中を買って菊坂を下り、久し振りにご自
宅をたずねてみよう。そして玄関先に佇み、こう呟こう。
「先生、神のお話をお聞かせください」と。

そんなことを想った日本晴れの10日だったのです。
それでは良い週末を。