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東井悠友林


   ~ 「常識」 ~
                                       
                                         (公社)日本産婦人科医会事務局長
                                          (元・厚生労働省成田検疫所次長)
                                               勝 又 勝 行 
勝又勝行氏写真


 これまで私は、優秀な頭脳も特技も持ち合わせていないことから、全くもって普通で、
いたって平均的な日本人として、自分の常識的な判断のもとに世間を渡って行こうと決
めて、生きてきました。
 しかし、年齢を重ねたせいなのか、世間が変わってきたのか、近頃はそのような「自
分の常識」が、ことごとく否定されるようなことが多くなった、と痛感しています。
 確認のため、「常識」という言葉の意味について調べてみました。広辞苑(第2版補
訂版)によると、常識とは「普通一般人が持ち、また、持っているべき標準知力」とあ
り、最近発行された第7版でも同じ記載でした。広辞苑上では、数十年たっても「常識」
の意味は変わっていませんでした。

 最近、若い人ばかりでなく、年配の方との会話の中でも、しばしば感じることがあるの
ですが、新聞・テレビ・週刊誌等で話題になっている事柄について話をすると、まるで、
それまで思っていた自分の考え方が世間常識からかけ離れていて、私が全く非常識な人間
であるかの如く、自分の考え方が否定されてしまうことがあります。私はそんな場面にお
いては、その話題についての自分の考え方を発言し、他人とトコトン議論するということ
は滅多にしませんので、すごくストレスを感じてしまいます。だが議論すれば、もっとス
トレスになるでしょう。もっとも、そもそも常識についての議論というのは、意見の違い
の話でしょう。

 最近の全国紙と呼ばれる新聞を読んでも、何でこんな論調になるのか理解できないこと
があります。私は、幸いにも何種類もの新聞を見る機会があるので、一社の記事だけでそ
の内容を理解し納得するということは極力避け、様々な新聞社の独自の主張のもとに書か
れている記事を読みながら、最終的には総合的な見地から、自分の感性を信じて物事を判
断することにしていますが、それにしても一つの記事が、新聞社によって全く異なった視
点から述べられていることが多いことに気付かされます。新聞ばかりか、テレビの報道番
組でもそういったことがたびたび見受けられます。
 世間一般での会話を聞いていると、その人が何新聞を購読しているか、何チャンネルを
いつも観ているかがよく分かります。購読している新聞や視聴するチャンネルの論調が、
自分で意識していなくとも知らず知らずのうちにしっかりと心に刷り込まれているのでし
ょう。これをその方々は世間の常識のように話をされます。これでは、国民はマスコミに
より簡単にマインド操作されてしまいます。

 マスメディアはこのような世論形成力を持っているので、新聞は事実関係を偏向無しに
しっかりと伝えた上で、ここからは「我が社独自の主張である」ということを明示した上
で論評し、テレビの報道番組は、偏向のない事実関係だけを報道すればいいのに、と思っ
ています。

 最近のテレビは、失礼ながら「世間受けのいい人気者」である素人(専門知識があれば
良いというものでもありませんが)のコメンテーターが、あたかも知識人のように意見を
述べまくり、それに同調するお仲間だけが集まったバラエテイ番組が少なくないですが、
「なにこれ?!」って感じになってしまいます。
 政治問題しかり、外交問題しかり。
 外交において、日本側はこちらのまともな正論と思って議論しても、そもそも基となる
思想から、宗教観からが違うので、議論がかみ合わないのは当然です。どんなにこちらが
常識・正論だと確信して相手を納得させようと思っても、基となる社会環境、歴史的文化
が違うので、そう簡単に納得させることはできません。多種多様な国々・民族からなる世
界においては、「そんなものかな」とこれまでも思ってきましたが、今や足下の日本人で
も、いろいろな考えを持った人々が出てきたと深い感慨を抱くのです。一昔前と異なり、
いろいろな個性を自由に発現できる日本社会。これは世界でも極めて稀な平和な状態であ
ることの証左なのだ、と喜ぶべきことなのでしょう。

 いろいろな意見に耳を傾けていると、「常識」と「意見」というものが何なのか訳が分
からなくなってきてしまいます。これまでの日本においては、「常識」とは古来のしきた
りや、前例についての知識であって、それを先代から学び、何となくみんなのコンセンサ
スにより成り立ってきたものが、今日においては、それが崩壊し、多様化してきたのだろ
うと思います。このことは、日本の過去の「常識」というものが淘汰され、私には理解で
きない世界基準の「常識」に近づいているのかも知れません。いよいよ日本社会も混沌の
中からグローバル化が進み、「旧日本人」が淘汰されていくのでしょうか。これはもう常
識の話ではなく、意見の話になってきたのでしょう。

 これまで、常識人ぶって生きてきた自分に自信が持てなくなってきている昨今。
 私に「普通一般人が持ち、また、持っているべき標準知力」が欠けてきたのでしょうか。
世界基準の社会(?)において「常識で考えろよ」「そんなの常識だろ」「常識の無いや
つだな」などという言葉は、今後禁句でしょうか。
  「エッ、そんなことも分からないで生きてきたのかよ。そんなの常識だよ」 って言わ
れるでしょうか。
悩ましい今日この頃です。
     

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