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東井悠友林


   ~ 故郷(小樽市)の思い出 ~
                                
                                       (公社)日本臓器移植ネットワーク事務局長
                                           (元厚生労働省成田検疫所次長)  
                                                坂 﨑 登平本照麿氏写真


 私の故郷は北海道の小樽市です。札幌から電車で30- 分、新千歳空港からだと70
分で小樽に到着します。北海道の中央部西に位置する日本海に面した港町です。
 現在の人口は約12万人で、小樽運河を中心とした歴史的建造物等の景観と寿司等の
海産物の食が人気の観光都市。毎年700万人の観光客が訪れており、市町村の魅力度
ランキンク調査ではトップ10にランクインする都市になっております。
 さて、私がこの小樽に生を受けたのは昭和24年で昭和45年に東京に出てきました
が、小学校時代について記したいと思います。

 小樽は、道内各地からの石炭の積み出しや道内各地への物資陸揚げの中心港となり、
昭和初期には金融機関や船舶会社、商社などが進出して、「北のウォール街」と呼ばれ
北海道経済の中心都市として発展しました。
 戦後、ニシン漁の不漁、石炭需要の減少、道内他都市の港湾整備により、経済の中心
が札幌へと移行し、小樽は衰退の一途を辿ることとなりますが、その当時の歴史的建造
物を観光資源に活用し、観光都市として変貌しました。

 私が小学校に入った頃(S31年)には、市の人口は約19万人で、1学年10クラ
ス(1クラス50人位)で学校が終わると皆な一目散に帰り、冬であれば坂道が多かっ
たので道路の端っこに雪を踏み固め、積み上げてジャンプ台を完成させてスキージャン
プをしたり、坂の上から橇すべり、竹スキーすべり、雪玉による雪合戦。また、空き地
に「雪のかまくら」を作って、その中にコタツを持ち込んで駄菓子を食べたりしました。
 小学校5年(S35年10月)の時に父(55才)か出張先で脳溢血のため急逝。母
は43才で、子供は4人兄弟。私が一番下で全員が学生・生徒でした。一番上の兄貴は
大学一年の時、正月の箱根駅伝でS大学第6区の山下りを走りました。しかし学資が出
せなくなったので、陸上部には籍を置きながら学資のためのアルバイトに励み、練習は
ままならず。1回きりの箱根駅伝出場となりました。
 私もこの時期に新聞配達をしました。その時の配達先の方々のちょっとした掛け声と、
温かな気遣いが今でも心に残っています。配達すると「おお ご苦労さん !」 と何か元
気が出るような掛け声をかけてくれたり、市場の中の屋台のラーメン屋では、たまに
「今日客が少ないから食っていけ」とご馳走になったり、一般の家でも「お疲れさん、
温ったかいコーヒーでも飲んでいきな」という声をかけてくれて、元気になったことが
忘れられません。
 この時代は、ほとんどの人が厳しい生活を強いられていた時代にも関わらず、皆な元
気で優しく、活気に溢れていました。
 小樽というところは、北海道開拓に全国から人が集まってのスタートの地だったので、
何かこれからの期待と希望と不安が入り混じっての「励ましあいの心」が強かったので
はないでしょうか。それが今でも息づいているように思います。

 小学校というと、石原裕次郎さんも父親が山下汽船小樽支店に赴任中の昭和12年~
17年の間、市内の稲穂小学校に2年生まで在籍していました。なぜか裕次郎さんは小
樽が気に入っていたようで、小学校の同窓会に出席されたり、個人的にブラリとお忍び
で来たり、北原三枝さんとの結婚の時には回りから反対され、二人で一時小樽の料亭旅
館に雲隠れしたりしていました。結婚後、小樽に裕次郎記念館を建設し好評でしたが、
残念ながら一昨年に閉館しました。
 裕次郎さんの出た稲穂小学校は私の出た花園小学校の隣の小学校でした。私が小学校
高学年の頃には裕次郎さんは映画デビューしており、学校では毎日のように話題となり、
映画館はいつも超満員だったことを記憶しています。
 現在、小樽駅のプラットホームに、等身大の裕次郎さんのパネルがあります。
 今でもそこに立つと、小さい頃の温かな方々が行きかっていた小樽の町の思い出が蘇
ります。
 皆さんも是非一度、小樽を訪れてみてください。
 きっと、温かな何かを感じられるのでは、と思います。
     

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