本文へスキップ
東井悠友林

  ~猫と私の生活史

      朝山病院 精神科医
   (元・厚生労働省名古屋検疫所長)
        橋 本 迪 子
 
 
 みなさん!猫化けをご存知でしょうか。
私は小学1年生の時、隣の地区の公民館で猫化けの映画を見て以来、中学入学の頃まで夜中に一人でトイレに行けませんでした。実家は遠く屋島を望む里山にあり、夜は仏間の裏の長い廊下の先の庭に出る渡り廊下のその先にあるトイレに、ひたひたと押し寄せる闇の中を行かねばならなかったのです。番町皿屋敷のお菊さんの猫版で行燈の油をなめる御女中の影がちらつく数年をすごしましたが、頼りは常に両脇にいる我が家の猫たちでした。
 中学時代の私の夢は、大きくなったら山のふもとの一軒家にばあやと猫と暮らし休日には山に登るという能天気なものでした。
 高3まで過ごした実家には、犬、猿、山羊、羊、カラスなどが時に入り乱れて飼われていましたが、猫のいない時期はありませんでした。大学入学後、無性に猫に会いたくなったのが私のホームシックだったと思います。
 鹿児島の大学時代は下宿のおばあさんが猫嫌いとも知らず野良猫を玄関わきの書生部屋で飼い、猫が出てくるとおばあさんと私はまったく猫が目に入らないといった雰囲気で世間話をしておりました。
 大学卒業後、他大学での研修、結婚、再び鹿児島での医局生活を経て東京に移り住み東京下町の精神病院勤務を数年、その間に子供が4人に増えておりました。その後、西ドイツ経由で平成元年に浜松に移転し、大学の宿舎に入居し22年を過ごすことになりました。
 大学の宿舎に出向くと真っ黒の猫が宿舎の皆さんに飼われておりました。ほどなくしてその黒猫が我が家の倉庫で真っ黒の5匹の子猫を生み、いつのまにか我が家のベランダ猫になりました。時には子猫の父親の大きな黒猫が来る、歩いている次男にどこかのお姉さんが手を出しなさいと言い、出した手に子猫が乗せられたり、その子猫の世話に大きなとらねこがやって来たり、玄関に捨て猫されたりと一時は13匹の猫がベランダに限らず部屋の中を右往左往しておりました。
 移転後半年ほどは、幼稚園に行かないという三男、3歳になったばかりの長女と宿舎の原っぱで遊んでおりましたが、平成2年に入り清水検疫所の医師募集が公衆衛生学教室から回ってきました。子持ちも可とありましたので、ダメ元と応募したところ平成2年5月検疫所に採用になり清水検疫所勤務となりました。以来、平成25年3月まで清水港、東京港、名古屋空港、中部空港、名古屋港の検疫に従事しました。その23年間を検疫所で得難い経験をし、新幹線通勤により世間の変化を感じて過ごすことが出来ました。
 東井さんとお会いしたのは東京検疫所時代です。次長として赴任された東井さんにお会いし薫陶を受けた次第です。権威にへつらわず筋を通し、細やかな気配りができる方と感じております。
 さて、その後の猫たちは雄猫にありがちな雲隠れ、交通事故などで少なくなり7匹の時代が長く続きました。車の音を聞き分け私の帰宅時は駐車場まで全員で出迎えてくれ一緒に帰る日々を過ごしました。何匹かはご近所の単身赴任の先生方と親交を結び、ご近所へ回覧板を届ける際に同行し世間話が長くなると袖を引きに来る猫もいました。当時飼っていた亀の甲羅干しの際に付き添い見守ってくれる猫もおりました。
 人間の子供たちはそれぞれ家を出て新たな生活を始めましたが、我が家では常に猫との生活が続いています。
 平成22年夫の定年退職を機にマンションの5階に移転の際は4匹になっておりました。
 現在は24歳と23歳の高齢おばあさん猫2匹と暮らす我が家は養老院と呼ばれておりますが、実際はお猫様にお仕えしつつ癒し癒される老々介護施設でございます。

あとがき
 東井さんより原稿依頼があり、猫も可との話をお聞きした瞬間に猫化けを思い出し、書き出しがおどろおどろしいものになってしまいました。団塊の世代の1年前に生まれ猫や子どもと共に右往左往としてきた越しかたの一片を披露させて頂きました。