67回目の正月を穏やかに迎えました。
元旦は、私共の上馬の家に3人の子供とその配偶者・3人の孫の計10名が寄り集い、朝
の9時から午後の3時半まで酒食と歓談に興じていました。
私は「久保田・千寿」(燗酒の場合、現時点で最もうまい)を息子達とゆっくり酌み
交わしながら、「あと何回、このような元旦を迎えられるのだろう」と、孫達が食卓
を離れて戯れている姿を眺めながら、深い感慨に耽っていました。
そして、年長の男孫(5歳)が手渡してくれた年賀状の束を解きほどき、とりあえず
ざっと目を通します。
じっくりと読み返すのは、後のお楽しみです。
良くも悪くも、この年賀状という慣習があってこそ、正月気分もいや増すと言えるで
しょう。
「良く」とは、懐かしき人や心のこもった文面に触れて嬉しくなること。
「悪く」は、形式的な年賀状が少なくないこと。
私の出す年賀状の枚数は、約550枚。
受け取る枚数は、会社や飲食店、関係団体などからが加わり、約600枚前後。
今回は余程「虚礼の年賀状を廃し、差し出す人数を200名ほどに絞り込む」という覚悟
をしていましたが、いざ事に当たるとどうにも絞り込みの基準が定まらず、時はクリ
スマスを過ぎたので、やむを得ずパソコンの「筆まめ」で機会的に前年のデータから
「喪中」の人を除外し、すぐに宛名印刷を行ってしまいました。
機会的にと言っても、葉書の表と裏の印刷に相当な時間がかかります。
その結果、各人への添え書きが出来ぬまま、28日に慌てて郵便局に駆け込んで投かん
した次第でした。
正月も1週間余が過ぎた今、年賀状の到着も一段落したようです。
毎年、この年賀状のやりとりしていて、幾つかの傾向を感じることがあります。
一つには、差出人には「自発的に先方(東井)に賀状を出している人」と、「こちら
(東井)の年賀状を受け取ったから、返事を出していると思われる人」の二通りいる
ということ。
二つ目は、元旦に到着する年賀状にも「毎年、工夫を凝らしているもの」と「パソコ
ン処理で、前年通り機会的に発信しているもの」の二通りあるということ。
三つ目は、年賀状には「写真や絵やイラストや文章が手作りされて、本人の意志が伝
わってくる年賀状」と、「定型文をそのまま印刷しているだけの無味乾燥な年賀状」
の二通りあるということ。
四つ目は、添え書きが「ある年賀状」と「無い年賀状」。
私は、やはり受け取って嬉しい年賀状は「元旦に受け取る年賀状(自発的に発信され
ているということ)で、自分の言葉で新年の挨拶が述べられているもの。
その言葉が印刷の場合あるいは写真や絵だけの場合は、一言でも添え書きがあるもの」。
例えば、かって厚生労働省で私の職場の上司だった、元・宮内庁長官の羽毛田氏の年
賀状。
「皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします。
週二日の勤務のほかは、農作業三昧の日々を楽しんでいます。
本年もよろしくお願い申し上げます。」とあり、添え書きで「のんびり暮らしていま
す」
とあります。
去年は「事業の方は順調ですか?」と。
宛名も、昔から変わらぬ万年筆で書かれています。
ご自分の所属や役職などの肩書きは、一切つけず。
もう20数年のやり取りになりますが、一貫しています。
私より遥かに多数の方々に発出されているであろう年賀状。
その一枚一枚の宛名と添え書きを丁寧にされておられることに、頭が下がります。
他にも多くの現職・OBの局長や審議官の方、企業や団体・病院などのトップの方から
もいただいておりますが、公私ともにご多忙を極めておられる中、どれもが実に丁寧
な味のある
年賀状ばかりなので、驚かされます。
「来年の年賀状こそは、実(じつ)のある人々を選別し、気持を込めた年賀状を出さ
せていただく」
これを、今年の目標の一つにします。
それでは良い週末を。良い1年を。