今日は4月10日。
新年度(平成26年度)がスタートして10日目になりました。
かって私が役人(サラリーマン)だった頃は、年度末と年度初めの期間は社会にも職
場にも独特な雰囲気が漂い、私は幾つになっても期待と不安に包まれながら、緊張感
を抱いて日々を送っていたものです。
そして桜の花が散って葉桜に変わる頃に、ようやく周囲も自身も落ち着きが出てきて、
「よし、やるぞ!」という気力が滲み出てくるのでした。
しかし、今の時代はどうなのでしょうか?
街ゆく人や電車内の人の表情を眺めてみても、溌剌とした表情の人には全くお目にか
かれません。
若き者も、脂が乗った働き盛りの者も、年度末とか新年度とかにかかわらず、一年中
同じ。
誰もが無表情。
その無表情は、平穏な生活と将来に対する安心感から生まれた、無防備なほどの自然
顔だったらいいのですが、それは押し並(な)べて「無気力」ともとれるもの。
手塚治虫の漫画などで、サラリーマンなどの群衆が、どの顔にも目鼻が描かれていな
いノッペラボウに描かれている場合が出てきますが、あれと同じ。
街を歩いていても喫茶店に入っても電車に乗っても、みなノッペラボウの人々。
ある会社のアンケート調査で、「今の生活は面白くない」と回答した者が多数。
それでいて「今の生活に満足。まあ満足」が、やはり多数に。
「仕事はやり甲斐を感じるものではないし、面白くない。
でも、ほどほどの給料が貰えて、贅沢をしなければほどほどの生活を送れるから、不
満は無い」といったところでしょうか。
この例を国政レベルで見ると。
「安倍政権が推し進める集団的自衛権の行使容認や、閣議決定で済ます解釈改憲や、
原発の再稼働には反対」が今のところ国民の多数意見。しかし「安倍政権を支持する」
国民も過半数。
このネジレのナンセンスさは、国政・地方を問わず選挙でも如実に感じられます。
普段は「今の日本は、第2次世界大戦に突入する頃の日本と同じだ(注・1923年に関東
大震災。それ以降震災恐慌及び昭和恐慌へ。1931年満州事変勃発。1932年5・15事件。
1936年2・26事件。1937年〜45年日中全面戦争。1940年大政翼賛会発足、日独伊三国同
盟。1941年日米交渉決裂、米英などの日本包囲網。太平洋戦争開戦)」と、地元の年
配者や役員が仲間内で酒談議。
主婦たちは「特定秘密保護法なんて、どうして出来ちゃうの。怖いわね。それに消費
税増税とか、電気やガスや水道料金の値上げなど物価値上げを奨励してるみたいだけ
ど、今の政権はひど過ぎない?もっと無駄な予算を削ってよと言いたいわ。このまま
では日本は沈没しちゃうわよ」と井戸端会議。
しかし。
おらが地域の選挙となると、いそいそと自民党の選挙応援に。
「今の政治や政党は悪いけど、やっぱり議員は知っている人に入れたいよね。
それになんだかんだ言っても、自民党しか任せられるとこが無いじゃない」と。
これでは、確かに日本の社会は第2次大戦前夜と同様に、とんでもないところに漂流し
て座礁するしかないのかも知れない。最近、そんな気が一段と深まっているのです。
やはり、「国民主権」のとおり、全ての政治社会問題は国民の意識と行動の表れ、で
あるはず。
その時代の国民のレベルが、その時の政治を形成するのでしょう。
昨夜、DVDで観た一本の映画。
それは黒澤明監督の「生きる」。
昭和27年に上映された、黒澤明が監督した時代劇以外(現代劇)で、最も評価の高い
作品。
既にご覧になった方が多いと思いますが、改めてドラマの概要を。
ある市役所の市民課長(役・志村 喬)が主人公。
彼は勤続30年無欠勤の表彰を受けている、定年間近の「超まじめ人間」。
来る日も来る日も書類の山に囲まれて、朝から定時まで黙々と捺印するのが仕事。
幾つかの決裁に押印するたびに、懐中時計を取り出して時間を見、溜め息をついてま
た押印にかかる。
自己主張も部下への指導もせずに、ただただ決裁文書に目を通して押印するだけの役
所勤め。
映画の各シーンではナレーターの解説が入るが、彼を「彼は時間をつぶしているだけ
だ。
仕事に対する意欲や情熱は全くない。彼には生きた時間が全くない。
つまり生きている生きているとは言えないのである」と評している。
定時に登庁し、定時に退庁。酒場にもましてやバーにもキャバレーにもパチンコにも
ダンスホールにも、今まで1度も行ったことの無い生活。
部下たちは、そんな課長を陰で「ミイラ」のあだ名をつけて、小馬鹿に。
その彼に、ある日異変が。
体調不良から病院で診察を受けた結果、「胃がん」が判明。
それはまさに彼にとって「晴天の霹靂」。
他の患者達の病歴の話を聞いて、直感。(主治医は「胃潰瘍」と伝え、ガンの告知は
していないが様々な状況から本人は胃がん、それも余命半年と確信)。
生まれて初めて激しい死の恐怖におののき、翌日から無断欠勤。
あの謹厳実直な課長の無断欠勤が何日も続き、課員はみな「驚天動地」の騒ぎ。
その間、課長は「私はこの30年間、、、役所で一体何をしたのか、、、」との思いに
さいなまれ、ふらふらと昼から居酒屋へ。胸のむかつきを抑えながら、全てを忘れた
い衝動から流し込む酒。
そこで知った文士と称する黒服のコートを着た男と知り合い、初めて他人に自分の胃
がんの話をし、「私の余命もわずかだ。貯金したお金も退職金もどうでもいい。カネ
を出すからどこかに遊びにつれって言ってくれ」と頼み、一緒に明け方まで酒を飲み、
パチンコをし、ナイトクラブで女とダンスをし、遥か昔に置き忘れてきた「生きる」
実感を貪ろうとする。
ある日、課の臨時職員の若い女性に街で会い、喫茶店に。
役所に入って1年半の娘は、退職するとのこと。
「あんなところで30年も!私だったらつまらなくて死にそうだわ。あら、ごめんなさ
い、、、」
「いや、、全く、、私はこの30年間、役所で一体何をしたのか。良く考えても想い出
せない。
つまり、、ただ忙しくて、、しかも退屈なことだけだ、、、。でも、、死ぬまでに何
が出来るか?、、、いやもう遅い、、、」
その時、業務上のある案件が心に浮かんだ。
久し振りに出勤した市民課。
周囲の驚きをよそに、資料を探し出してその検討に目を凝らせる。
その案件とは、ある地域の母親たちの陳情書。
「母親たちが住む貧しい住宅地の低地の一角に、ため池の様な水たまりがある。
それは各家の下水や雨水や工場排水などが溜まって出来たもので、ボウフラがわき、
悪臭がやまず、子供たちが遊ぶには不衛生で危険。だから下水処理を整備し、そこを
暗渠にして児童公園を造成して貰いたい」しかし、長期間にわたって繰り返し市に陳
情しても、役所側の対応はまさにお役所仕事。
「窓口の市民課は、下水処理だから下水課に行ってください。下水課では、工事をす
る土木課へ。
すると公園を造るのだから公園課に。すると環境問題だから環境衛生課に。すると子
供の遊び場だから児童福祉課へ。すると、まずは予算の問題だから総務課へ。そして
結局は窓口は市民課だからそこでよく話を詰めるように」
そこで市民課長の、死を賭した鬼のような執念の仕事がはじまるのです。
課員全員は「余計な仕事をしない。役所には縄張りがあるから縄張りを守って仕事を
すればいい」という役所の掟が身体に沁み渡っているから、課長の行動に大反対。
しかし、心ひそかに「私には時間が無い、、、」と言い聞かせながら、全ての課長に
朴訥な語りで粘り強く児童公園造成への同意を取りに回るのです。
そして全ての同意の印を取り、造成工事が始まったある日、市民課長は重い身体を引
きずりながら役所に戻る途中、ある橋の上で佇んで西の空を眺めながら、同行の課長
補佐に語るとはなく呟くのです。
「ああ、、、美しい夕焼けだなあ、、こんなきれいな夕焼けを、久しく見てなかった
、、、」
市民課長は、児童公園が完成した雪の日の夜に、一人、ブランコに座りながら歌を口
ずさむのです。
「♪命みじかし、、、恋せよ乙女、、」
彼が唯一愛した「ゴンドラの唄」。
そして雪が降りやまぬ公園のブランコで、その夜、彼は亡くなったのです。
今日も満員電車に揺られて職場に向う人々。
今日も学校に向う人々。
朝から街をさまよう高齢者の人々。
日本中、特に東京はそうした人々で毎日溢れかえっています。
私は時にはそうした人々の群れの中にいて、時には喫茶店の窓辺にいて「今日を生き
る」人々を眺めています。
そして、冒頭でふれたように「無表情」の人々を見つめながら、「この人たちは、何
を目指して歩いているのだろうか。何を求めて生きているのだろうか?」と尋ねたく
なることがあります。
答えはきっと「そんなこと、考えたこともない。生きるために仕事をし、そしてカネ
を稼ぐ。
ただそれだけ。あれこれ考える余裕も関心もない。
ぼ〜としていたら、泣きを見るのは自分だからね」といったところでしょうか。
「政治問題も、こむずかしい社会問題も、どうでもいい。そんなことを考えていたら
疲れるだけ。
ちょっとでも貯金をして、たまに美味いものを食べに行けたら、それで十分」
「私はもう十分長く生きてきたから、いつ死んでもいいんだよ。余り長く生きている
と、貯金も底をついて悲惨だからね」
生き方は人それぞれ。
でも、この砂漠の様に無味乾燥な社会の中で、人々が無関心で無感動にみえるのは、
やはり生活に「余裕が無い」ことと、心を許せる友人や知人が見当たらない「孤独感」
を抱いた人が増えているためではないだろうか、と私は推察しているのです。
私は昨日も、事務所に向う途中の喫茶店「ドトール」で、1杯(Sサイズ)220円のブレ
ンド珈琲を飲みながら、「消費税引き上げを機に、200円から220円に20円アップ。こ
れにケーキをつけた私の好きなケーキセットは500円から560円に12%も値上げ。喫茶
代など知れたものかもしれないが他の全てのサービスや物の物価が上がっている。
これが庶民にはボデイブローとなって、庶民の生活はますます余裕がなくなってくる
のではないだろうか。だから人間関係も地域の結びつきも疎遠な、孤独社会が進行す
るのだ」
そんなことを考えていました。
どんな状況にあっても、時の流れの中でしばし立ち止まり、大空を仰ぎ、夕陽を眺め
る心の余裕だけは失いたくないもの。
「今日も悔いなく生きた!」
そう言える人生を送りたいものです。
人が変われば集団が変わり、組織が変わり、街が変わり、そして国が変わっていく。
そう信じて、勇んだ表情で新緑の街に飛び出すことにしましょう。
それでは良い週末を。