先週末は、長野県佐久市にある「佐久総合病院」の病院祭に行ってきました。
毎年、病院祭は地元・臼田町の「小満祭」に合わせ、5月中旬の土曜・日曜日の2日間
に開催。
今年の病院祭は5月17日(土)〜18日(日)。小満祭は18日。
小満(しょうまん)とは、古代中国で作られた季節の区分法である「二十四節気」の
一つ。
「5月21日頃。陽気高調して、万物ほぼ満足する候」とのこと。
この時季に田植えなどを行い、五穀豊穣を願うのでしょう。
長野新幹線の佐久平駅で単線の小海線に乗り換え。
けだるくなるような早さで走る列車(と言っても2両編成)の揺れに身を任せ、車窓に
広がる田園風景をぼんやり眺めていると、水が張られた田圃や畦道の青草や、それに
農家の庭先に咲き乱れる種々の色鮮やかな草花が、眩い陽射しを一杯に浴びて輝いて
見えます。のどかな初夏の訪れを感じます。
まさに陽気高調。
私が病院に到着したのは17日の午後2時頃。
院内の各コーナーに展示されたパネルや創作品などをざっと見学し、院内のメイン・
ステージを覗いた時、丁度、夏川名誉院長の日舞が始まったところ。
氏の実演を観るのは、これが初めて。
「日舞ではなく、酔舞だろう」とタカをくくっていましたが、どうしてどうして。
気迫のこもった舞いの中に、一種の男の艶が感じられました。
そして、午後3時から始まった「第68回病院祭祝賀会」。
私が東京からわざわざ出かけてきたのは、この懇親会に招待されていたため。
会場は、看護専門学校の広い体育館。
20個の大テーブルが配置され、ざっと見渡したところ、出席者は総勢200名超。
会場の入り口には病院関係者が立ち並び、入場者一人ひとりに会釈をして迎え、11〜
12名の席が設けられた各テーブルには、病院の役職者が必ず1〜2名配置され、招待客
への気配りをしています。
そして会場の中を所狭しと配膳して回る、多くの病院職員。
毎度見慣れた光景ですが、佐久病院の底力は、こうした数ある年中行事の一つ一つを、
職員の総力で見事にこなし続けているところにある、と言ってもいいでしょう。
まさに若月イズムの一つである「気働き」が、病院の中に脈々と生きていると痛感さ
せられます。
祝賀会は、地元選出の国会議員や市長などの来賓祝辞、伊澤統括院長の主催者挨拶と
続いて、始まりました。
伊澤院長が、現在の不穏な強権政治に触れながら「私の専門領域(注・精神神経科)
で診察されたほうが良いのではないか」という趣旨の言葉で、やんわり我が国のトッ
プを風刺された時には、思わず吹き出してしまいました。
私の席の左隣は井出正一氏。元・新党さきがけの代表で、元厚生大臣を務められた方。
というより、私が「丹精にんにく酒」の製造を委託している老舗蔵元「橘倉酒造」の
会長さん。
乾杯のビールを注ごうとしたら「いや、私は日本酒で」と、自社の銘酒「菊秀」をコ
ップに注がれていました。
今年で後期高齢者とおっしゃっていたが、見た目にはまだ70前後。私達が話している
時に、弟の井出民夫社長が来られ、そのそっくりな二人の風貌に驚きました。
若さの秘訣は日本酒なのでしょう。
また、私の右隣には副院長(脳外科)の河野和幸氏が。
氏は小柄ながら陽に焼けた精悍な風貌。話をすると長年「ソフトテニス」をやってお
り、群馬県に在住していた時には県内大会で優勝したり、国体にも出場した経験があ
るとのこと。
私の配偶者が、やはりソフトテニスが趣味と知り、ひときわソフトテニスの話で盛り
上がっていると、伊澤院長がこられて立ち話。
「風刺の効いた、いい挨拶でしたよ」
「そのへんの話を、何か一言でも言わないと、と思っていました」
氏はいつでも冷静で落ち着いて見えます。
長年の懸案だった病院再構築。その大きな第1の課題である「佐久医療センター」が
完成し、竣工を祝う会が開催されたのが先の2月10日。
これからは第2の課題である「本院の再構築(増改築)」。
普通の人なら、これだけ難題が山積していると心の健康が損なわれてしまいますが、
伊澤院長はそちらのスペシャリストだから大丈夫でしょう。
その後に、佐久医療センターの初代院長となった渡辺仁氏がこられました。
氏とは、私が監督をしていた厚生労働省本省の野球部(ブルーバッカス)と、佐久病
院との親善試合を通してのお付き合い。
ブルーバッカスが佐久に遠征し、事務管理部門チームと医局チームとの2試合を行い、
終了後、農村研修センターの大広間で大懇親会を開催するのが、毎年の夏の恒例行事。
昭和58年からスタートして、昨年ですでに30回。
その医局チームの監督兼投手として、渡辺氏は今でも活躍。
いつもニコニコされている姿には、本当に親しみが湧いてきます。
そして、私の3つ右隣には北澤彰浩・診療部長が。
私が三重県厚生連の常務理事時代に、「三重県厚生連福祉研究会」をスタートさせ、
傘下7つの病院の医師・看護師・社会福祉士・事務担当者などを対象に、本部講堂で講
演会を開催。
氏には「地域の保健・医療・福祉の連携」について講演をしていただいたのです。
その時に一緒に車を飛ばし、佐久から三重県津市までこられたのが、現在の関看護部
長。
お二人と杯を交わすと、あの頃の「地域医療」に対する情熱を秘めた眼差しを、いつ
も想い出すのです。
話は変わり。
昭和58年10月19日。
あかぎ国体の軟式野球決勝戦。
佐久病院(長野県)対佐藤薬品工業(奈良)。
激しい雨の中の延長14回。
春原選手が外角高めの球を、伸びあがるようにしてバットをかぶせ、1塁へゴロを。
その間に素早く3塁ランナーがホームイン。
その瞬間、佐久病院の国体2連覇の偉業が成就。
「ほんと?!」これが、報告の電話を受け取った私の第1声だった。
やがて歓喜が胸に溢れてき、そして涙になった。
この山の中の、農村医療を守る、農協厚生連病院のチームが、全国の大きな都市や企
業のそれを、圧倒した。
これは素晴らしいではないか!」
若月先生の言葉が胸に沁み、こちらも涙が滲みます。
それは、野球の偉業もさることながら、雑草のように踏まれても踏まれても「なにく
そ、負けてたまるか!」と、歯を食いしばって地域の病院を支えてきた、全ての病院
職員の誇りにつながる快哉だからです。
18日(日)は、朝から見事な五月晴れ。
普段は閑散とした病院前の目抜き通りは、様々な屋台がどこまでも連なり、初夏の陽
射しを浴びながら多くの人が行きかっていました。
私は小海線の車窓に流れる田園風景を眺めながら、若月先生の「健康は平和の礎」と
いう名言をしみじみと想い出していました。
むやみに時流に流されることなく、愚直に「若月イズム」を貫くこと。
それこそ、今の時代で最も斬新な経営方針だ。
ホームランはいらない。コツコツとヒットと四球と盗塁とバンドを重ね、病院再構築
の天晴(あっぱれ)な成就を勝ち取るのだ。
さあ、出番だ。
頑張れ、佐久病院!
それでは良い週末を。