先週のある日の午後3時頃、四谷に出かけました。
用向きは、日本を代表する鍼灸師であり、鍼灸療院「一本堂」を長年経営し、多くの
患者の治療に当たってきた日中医療普及協会会長の横山瑞生氏を訪ねること。
そして最近まとめた拙書「良い週末を」の第7巻を差し上げること。
氏には今までの数巻を差し上げていたのですが、週刊誌や新聞などに針や漢方に関す
る文章を頻繁に書かれ、読書や執筆に長けている氏から、「いや、面白いので2度読ま
せて貰いました。文章が上手いですねえ」との言葉をいただいていたので、ホイホイ
と駆けつけたのです。
氏との出会いは、私が37歳の時に椎間板ヘルニアをおこした昭和59年。
野球の練習中「ギクッ」と鈍い音がし、鋭い痛みが腰回りに走り、立っていることも
ままならず。
すぐに虎ノ門病院の整形外科に直行し、診て貰ったのですが。
整形外科部長の所見は「本来は手術して髄核を除去するほどの重症度だが、痛み止め
をし、コルセットをして様子を見ましょう。
週に一度通院し、腰部の牽引をして下さい」とのこと。
「運動はいつごろ出来ますか?」と不安げに尋ねたら「重症だよ。今は痛まない様に
し、日常動作が可能になることだけを考えること。
運動が出来るようになるかどうかは、わからない。
症状により、手術も考えなくてはならない」との厳しい助言。
私は、「ハードな運動は、もうこの先無理かも」と落胆し、唸ってしまいました。
それでも「何とか恢復の手立てはないものか」と考えを巡らし、民間療法の本を買い
あさって呼んだのですが、どれもイマイチ。
週に一度牽引に出かけ、腰部の血行循環を良くするため風呂に何度も浸かったり、冷
たい物の飲食を控えたり、職場では不自由なコルセットをしながらよたよたと廊下を
歩く訓練を繰り返していました。
そんな矢先、ある知人から紹介されたのが、横山先生だったのです。
当時は何冊も鍼灸の専門書を出し、テレビ出演しては家庭でできる指圧の方法を実技
を交えてわかりやすく説明したり、療院では何人もの研修生にボランテイアで実技指
導を行っていた、斯界での第一人者でした。
横山先生は、私の症状を聞くや、即座に「大丈夫、治りますよ」と、アンパンマンそ
っくりの丸い顔に笑顔を浮かべて断言してくれました。
以後、週2回針治療に通い続け、何と結局2カ月後にコルセットを外し、1時間の歩行や
以前の日常生活動作が可能となったのです。
その後は、月に2〜3度の治療を受け、家でウイリアムス体操(西洋式腰痛体操)や、
土曜日曜の1時間ウオーキング、頻繁な入浴などを励行。
そして、発症から半年後には、野球やゴルフが以前と同様に可能になったのです。
今でも信じられない出来事でした。
それが、横山先生との30年近い付き合いの、端緒だったのです。
(「丹精にんにく酒」のHPに、氏の顔写真と文章が載っています)。
しかし。
今年になって初めて訪れたマンション1階の治療院のドアは、鍵がかかったまま。
電話をしても「現在使われておりません」との無機質な音声が帰ってくるだけ。
人の気配もせず、怪訝に思って道路からカーテンの引かれたガラス窓を見上げると、
「空き室」の紙が貼られていました。
「70台半ばの御年なので、体調を崩されて廃業されたのだろうか?
そういえば、去年の秋に訪問した時は、心なしか元気がなかったが。
もう少し早く尋ねるのだった、、、、」
何とも言えないやるせなさを抱きながら、仕方なく四谷の駅に引き返したのです。
でも、心の靄が晴れません。
そこで、近くにある老舗の居酒屋「鈴伝」まで行き、一杯ひっかけようと考えたので
すが、どうも入る気になりません。
でも、少しだけ酒を飲みたい。このまま帰宅する気にはなれない。
その時、「そうだ!」と閃いたことがありました。
これも久しく忘れていたこと。
鈴伝から歩いて2分先にある、東京でも知る人ぞ知るジャズ喫茶の名店「いーぐる」
が、頭に浮かんだのです。
四谷駅から歩いて数分ほどの新宿通り沿いの地下にある、ジャズ喫茶「いーぐる」。
主人は私と同じ、昭和22年生まれ。
慶応大学在学中の昭和42年に今の店を開き、今日まで店主のかたわらジャズ評論家と
しても活躍中。
私が初めて店に入ったのは27歳、昭和49年の頃。
当時の厚生省では、昼食の時になると、課内の職員の殆どが課長を中心に群れをな
し、あるいはいつも同じメンバー数人で、下の食堂か、近くのビルの飲食店にゾロゾ
ロと向うのが慣例になっていました。
しかし私には、これが窮屈でつまらないので、しばしば「ちょっと約束があるから」
と言い残しては、一人で有楽町とか赤坂見附に地下鉄で脱出し、安らげる(定食プラ
ス珈琲)店に飛び込んでは、ひとり昼食を楽しんでいたのです。
そうした中で、霞ヶ関駅から丸の内線で3つ隣の四谷駅周辺が好きになり(夜は「し
んみち通り」の飲み屋街に出没)、偶然に見つけたのがジャズ喫茶・いーぐる。
舗道から地下へ通じる螺旋の階段を降り、重厚な木質のドアを開けると、大音響が飛
び込んできます。
入って一番奥の壁面の両脇には巨大なスピーカーが壁内に埋め込まれ、そこから出入
り口に向って長方形に広がる店内には、渋いフローリングに、やはり重厚な木のテー
ブルと黒い(人工?)レザーの幅広の椅子やソフアが、巧みに配置されています。
私はいつも、スピーカーが間近い左側の壁側の長テーブルとソフアに座り、ホット珈
琲を飲みながら瞑想して、音楽に聴きいっていました。
昼食は、四谷駅から店に来る途中の立ち食いそば屋で、5分ほどで天ぷらそばをかきこ
んで済ましていたのです。
従って、12時に職場を出て、15分には四谷に。12時30分前にはいーぐるの椅子に。
そして午後1時10分に店を出て25分頃、職場に帰還。
実質40分間のいーぐるでの時間は、自由で開放的で心の憂さが吹き飛ぶ、「濃密」な
異次元の世界でした。
勿論、その要因はジャズ音楽に。そのレコード音楽を臨場感一杯の音にして流す音響
装置の素晴らしさに。
さらに、様々なジャズ音楽を昼の客層に合わせて選曲し、演奏中は周囲の迷惑となる
会話を禁止し、大音響渦巻く室内を心地良いほどに静謐な雰囲気に保ってきた、店長
の手腕にあると言ってもいいでしょう。
先ほどの話に戻り。
私はハイネケンビールを飲みながら、久し振りに訪れた「いーぐる」の店内を見渡し
ました。
40年前と殆ど変わって(変えて)いない設備や装飾や配置。それに客層。
あの当時と全く同じ雰囲気に驚きました。
「まだ、こうしたセピア色の似合う空間が、あの当時と変わらずに残っている、、、」
何とも言えない感慨に耽りながら、ビートの効いたリズミカルなジャズ音楽に、1時
間ほど浸っていたのです。
帰りがけにスラッとした姿勢の良い店長に「たまにしか来ない客だが、もうここは40
年ほどになりますよ」
「ありがとうございます」
「どこの席が一番いいですか?」
「そうですね。やはりこの真ん中の席でしょうね」
と言って、レジから少し前方の真ん中の椅子を指します。
「やはりね。でもあの席は必ず先客が座っているんだよな。一度でいいからあの席で
聴きたいものだな」
「どうぞ、また来てください」
「まず来ることですね」
笑いながら別れました。
出入り口の近くに、様々なジャズ演奏会などのチラシが置いてあり、その中から一枚
のチラシを取って電車内で見ると、「ジャズ100年・全26巻」(小学館)とあります。
ほぼ2週間間隔で刊行されているCD付きのジャズ解説マガジン。
監修は、あのいーぐるの店長・後藤雅洋氏です。
帰路、既刊の4巻までを三軒茶屋の本屋で購入し、これからの残り22巻の定期購入を
予約。
早速、夕食後、第1巻の「まず、ピアノ・トリオから始めよう」のCDをかけました。
私の大好きなビル・エバンスのピアノトリオ(ピアノ、ベース、ドラム)の、「マイ
・フーリッシュ・ハート」や「ワルツ・フオー・デビイ」「いつか王子様が」などが
収録。
2巻目は、やはり私の好きなトランペット奏者・マイルス・デイヴスの「マイ・ファ
ニー・ヴァレンタイン」など。
愛おしく鍵盤を撫でるような、柔らかなピアノの音。それとお互いに調和を取るよう
な、控えめながら深く心に沁みてくるベースの音。
あるいは、清澄で孤高なトランペットの響き。
ついつい遅くまで聴き惚れてしまったのです。
60歳の時、小学6年生時のクラス会を開催しました。
その時、小学生の頃は学業優秀で足が早く、いつも自宅で母親からピアノのレッスン
を受けていたS君と、隣同士で話をしました。
若い頃は、当時の市川染五郎のような顔立ちでしたが、今は白髪が生えてきて、ふっ
くらとした年なりの風貌に、歳月の流れを痛感しました。
その、大手化学メーカーに勤めていたS君と。
「これからどうするの」
「あと3年は働きたいね」
「そのあとは?」
「趣味の山登りとジャズを楽しむよ」
クラス会で別れて何カ月か過ぎた頃、彼から郵便物が届いていました。
中には簡単な手紙と、彼が監修したジャズのCDが。
先のビル・エヴアンスの曲の様に、心が和む美しい旋律の1枚でした。
「そうか。山登りとジャズか。彼もいい後半生を送っているな」。
「私はガラクタの趣味ばかりだが、遅ればせながらジャズも加えさせて貰うか」
ゴルフではイーグルは一生無理だろうが、ジャズなら「いーぐる」は手の届くところ
にある。
そんなことを考えてニンマリしていた、この1週間でした。
それでは良い週末を。