集団的自衛権

「集団的自衛権の行使容認」に賛成か否か?!
現在、遅ればせながらマスコミで報道されている、日本の防衛のあり方と憲法解釈に
関する政治問題。
この問題は、日本社会を揺るがせた60年及び70年の「日米安保条約の改定」以上に重
大な、我が国における戦後最大の政治的課題だ、と私は思っています。
戦後69年間、戦争を一度たりとも行わず、また1人の戦死者も出さなかった日本。
まがりなりにも、憲法の規定に則り、他国の戦争・紛争に対しては、多国籍軍又は同
盟国(米国)の戦闘に対する人道的後方支援・PKO活動に限定されていたからです。
それが安倍政権になると、同盟国への戦闘的支援=集団的自衛権の行使も「憲法第9条
の解釈上、容認される」とし、憲法改正(各議院の総議員の3分の2以上の賛成→国民
投票で過半数の賛成が必要)の手続きを踏まえず、その実効に驀進し始めているので
す。

憲法論争で、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、永久に
これを放棄する」という第9条の解釈では、「自衛権は独立国家の基本的権利であるか
ら放棄することはできない」という学説の方が有力で、(国際連合憲章も自衛権の適
正な行使を認めている)、さらに米国からの「自衛力の増強」要請を受けて発足した
自衛隊も、今では多くの国民がその存在を認めるところとなっていることは、周知の
事実です。
そして、その自衛権は、飽くまでも他国からの侵略から日本を守るための個別的自衛
権に限られていました。
しかし。
2014年のいま、我が国は歴代の内閣も絶対に認めなかった「集団的自衛権=他国への
武力行使容認」へと、一気に突き進み始めています。
「国民の大事な命を守るため、日本の平和のため」という情緒的な美名を大宣伝しな
がら。

何度も言うようですが、集団的自衛権の扱いは、今後の日本の運命が決定づけられる
極めて重要な政治課題。
だが、どうでしょう。
政府内でのこまごまとした行使容認事例や文言の修正議論、机上の空論のような与党
内議論だけでこの問題が処理されていく様子に、私は強い懸念を抱きます。
国会内外の議論が、全く醒めているように映るからです。
行使容認の閣議決定がなされた後は、関係法令案の制定やガイドライン策定が政府内
で進められ、国会での審議になるでしょう。
でも、圧倒的多数の議席を擁する連立与党に対し、ただでさえ少数議席で乱立する野
党といえば、どこの党も政権与党にすり寄り、基本的に集団的自衛権に賛成している
状況。
まさに大政翼賛会の形が出来つつあります。
これでは国会での白熱・緊迫した議論は到底期待できません。
「いつ勃発するか予断を許さない、無法国の中国や北朝鮮からの侵略に対抗する為、
いつまでも米国におぶさっているだけでは駄目だ。日本もカネの供出だけではなく、
襲撃されている米国軍を武力で支援する必要がある。
いま、安保条約に基づく米国の軍事的支援がなくなれば、日本はやられる。そのため
には、米国から厳しく言われ続けてきたショー・ザ・フラッグ(カネより日の丸を見
せろ)、ブーツ・オン・ザ・グラウンド(他の同盟国の様に、日本も戦地に立て)の
実行が急務だ」と、与野党の多くの国会議員、それに政府系有識者、さらに大手マス
コミの幹部は考えているのでしょうか。

一方、主権者たる国民は、安保条約改定の時の様な国民運動(学生自治会・労働組合
・市民団体など)の機運も盛り上がっていません。
時々、数千名規模(主催者発表)の反対集会の開催や、俳優・菅原文太氏などの文化
人・憲法学者などが発起人となり、シンポジウムや意見広告が行われていますが、圧
倒的多数の国民は無関心の模様。
テレビや新聞も「反対派の運動」は黙殺するか、ニュースで流してもほんのわずかの
扱い。
国会議員と政府(防衛省・外務省等)マスコミは、イケイケの状態です。
しかも最近の読売新聞の世論調査では、「集団的自衛権の行使を容認する」ことに賛
成する国民が、過半数にのぼったとのこと。
きっと、「日本の安全と平和、国際協調のために、集団的自衛権の「限定的」な行使
容認について、あなたはどう思われますか?」などと設問されていることでしょう。
すると、大体の人は「限定的ならば、いいことではないか。中国が尖閣列島を占拠し
たら、米国と合同して奪還しなくては、日本はやられてしまう。だから賛成」と答え
るのではないでしょうか。
また、考えない人は「どちらともいえない」と。いつもどのような質問でも、「どち
らともいえない」と回答する人が多い日本社会。
自分の考えを持たない浮遊的なこの層は、有事の際は真っ先に世情に迎合し、付和雷
同的に国家礼賛に浮かれるのでしょう。
例えば次のごとくに。

「街々では、南京入城(注・1931年の満州事変勃発から6年後の1937年、日本軍は国民
政府の首都・南京を占領)を祝って、昼は旗行列の人の波が、夜は提灯行列の灯の列
が、「万歳!」を叫んで練り歩いていた。
中国地図の上に、日の丸の小旗が無数に立て並べられた占領地には、すでに中国人口
の半数近い二億余の人々が囲い込まれていた。(略)
こうした空気を背景に、軍部は高姿勢であった」(「落日燃ゆ」城山三郎著・新潮文
庫)

話はそれますが。
現在、ブラジルで開催中のサッカーW杯。
マスコミは当初「まずは、1勝」「1次リーグ突破だ」と言っていたのが、開幕が近付
くたびにボルテージが上がり、
「ベスト8だ。いや優勝も狙える!」とエスカレート。
そのたびに視聴率は高くなり、購買数もあがるのでしょう。
そして、普段から閉塞した格差社会で鬱々としている人々は、日本の初戦応援に異常
なほどの情熱を燃え上がらせたのでしょう。
私も試合開始から終了まで、ずっとテレビ観戦していました。
戦前の各紙の予想から、「攻撃力を強化した日本が、2−1ぐらいで勝つか?」など
と思っていましたが、残念ながらコートジボアールとは「個」の差が歴然としていた
ように感じました。
「マスコミが作り出すムードで、国民の認識はコロッと変わるもんだ」と痛感。
試合終了後外出すると、各駅はサポーターとおぼしき人々でごった返していました。
殆どが酒と騒ぎで疲れ果て、だらしなく座席でうなだれていました。
そこまではいいのですが、その晩のテレビニュースや翌朝の新聞では、またまたレポ
ーターが「祈って下さい。次は必ず勝ちます!」とか「頑張れ、ニッポン。これから
本領発揮!」
「1次リーグ突破は十分可能だ!」などと、感情を高ぶらせてくれる威勢の良い掛け声
が溢れており、苦笑してしまいました。(実現を期待していますが)

話は集団的自衛権に戻り。
6月17日の朝日新聞の夕刊。
次の記事が鮮烈に目に入りました。
語り手は、政治学の碩学(大学者)で東大名誉教授の石田氏(91歳)。
石田氏が夕刊のページを大きく割いたインタビューに応じたのは、10日付の投稿欄の
記事から。
1943年、学徒出陣で軍隊生活を経験した氏は、次の意見を投稿。
「集団的自衛権の容認などにより、海外で「敵」とされた人を
殺す任務を果たす兵士が必要になる。私は学徒出陣の時、人を殺す自信が持てなかっ
た。
しかし、命令されれば誰でも、いつでも人を殺さなくてはならないのが軍隊だ。
戦争で人を殺した米兵が、心の問題で悩んでいる例は少なくない。
安倍首相には、殺人を命じられる人の身になって、もう一度憲法9条の意味を考えてほ
しい」

この投書が発端にインタビューを受けたのですが、そこでの氏の次の話が鮮烈に残っ
たのです。
「(学徒出陣の頃)戦争は国民の命を守るため、平和のためだと美しく宣伝されてい
た。
軍隊は国民の期待を背負っていた。自分も愛国心を抱いた軍国青年だった。
しかし軍に入り、飢える国民を尻目に、上官が接待で飲み食いするなどの腐敗に幻滅
した。
命令に躊躇したり疑問を抱いたりしても、暴力で封殺された。
権力は批判を受けないと、無限に腐敗する。
権力を持った支配者は、安全な場所で、仲間同士で都合のいいことをするようになる。
集団的自衛権で対応する例として、避難する日本人を乗せた米国の艦船を自衛隊が守
る例をあげ、
「子供たちが乗る米国の船を、私達は守ることが出来ない」と訴えた。
「命を救う」などと感情に訴える言葉が、無責任な政策決定の口実に使われている。
国民は一時の感情を駆り立てる言葉に乗せられず、行使の結果を論理的に予測するべ
きだ」

この記事を読んだ前夜(6月16日)、私はDVDで1979年4月から全31回放映された
テレビの連続ドラマ「不毛地帯」(主演・平幹二郎)の、1〜5回分を見ました。
原作は書籍(山崎豊子著・新潮文庫)で既に読んでいますが、主人公は第2次世界大戦
で日本が降伏した時、陸軍中佐で大本営参謀だった、臺岐(いき)正。
1945年の終戦直前、ソ連が突然日本に宣戦布告し満州に南下してきた時、殆どの軍の
幹部とその家族が優先的に飛行機などで脱出したにもかかわらず、少ない座席を重傷
を負った部下に譲り、一人現地にとどまってソ連兵に逮捕される(注・後日、収容所
からの移送列車内で、臺岐は事情を知らない一人の民間人(通信業務をしていてスパ
イ容疑で逮捕・抑留)にこう痛罵されます。
「貴方たちは、軍人の家族を真っ先に帰すような、恥知らずな真似を、よく出来まし
たね!」と。)
臺岐は、厳寒の抑留地・シベリアの地で、11年に渡る重労働の抑留生活を負わされ、
最後の引き揚げ船で帰国。
そうした彼の数奇な運命を膨大な資料を駆使して描いた、日本を代表する(と私は思
う)大河ドラマ。

そのドラマの中で、臺岐が尊敬する彼の上官だった谷川大佐(陸軍報道部長)が、シ
ベリアの収容所で瞬時一緒だった臺岐に、こう語ったのです。
「〈馬100円、犬50円、ハト10円、、、。しかし、お前たち兵隊は1銭5厘。
1銭5厘の葉書1枚で、兵隊はいくらでも集まる。兵隊は人間ではない。消耗品だ〉
俺たち陸士の者は、そんな考え方が胸の奥底にあったんじゃないだろうか。
爆弾を背負って戦車に飛び込む特攻隊の兵隊たちも、みな人間であるという考えがあ
ったとしたら、
そんなことはとても考えつかない戦法だ、、、、。
このシベリアに来て1カ月。俺はずっとその事を反省し続けてきた。
しかし、遅過ぎたね、、、、。
兵隊たちが1日も早く、このシベリアから帰れるようになってほしい。
俺たち将校たちの抑留期間を長くすることで、それが叶うなら、俺はそうしてほしい
、、、、」
静かな語りを聞いた臺岐は、「私も同じ気持ちです、、、」と、迷わずに告げるので
す。

私は、現代においても人間(日本人)の性根は、70年前以上の戦前と根本的には変わ
っていない、と思っています。
政界でも役所でも会社でも地域でも、「強者に弱く、弱者に冷たい」と。
いざとなったらそれ相応の人でも、他人を蹴飛ばして自己防衛に走る人が、少なくな
いでしょう。
私自身、今までの組織社会で嫌というほどそうした事実を見聞きしてきました。
そして、今日の政治経済状況が混迷し、閉塞して不安に満ちた社会状況が続いている
にもかかわらず、政治家や官僚や会社幹部などは、その原因を探り、様々な結果を謙
虚に討論して総括し、あるいは自らの責任をとることなく、相変わらず自分達の既得
権益だけは守りながら、上から目線で旧来の政策を踏襲し、現場の実情も知らずに、
会議室で机上の空論を展開しているのが、今日の日本の実情と言えるのではないでし
ょうか。
そして、彼らがもたらした市場原理主義・優勝劣敗主義による社会の疲弊の犠牲者と
も言える、非正規労働者や低所得・単純労働の若者たちは、日頃の鬱憤のはけ口とし
て、そのエネルギーを社会正義(権力のチェック・労働条件の改善など)に向けるこ
となく、社会的弱者をターゲットにして「ヘイトスピーチ(差別的憎悪表現)」や
「イジメ」などに走るとしたら、ある一面では「中国や韓国を叩きのめせ!」という
憎悪感情の具体化として、意外と「集団的自衛権の行使容認」に通じてくるかもしれ
ない、などと考えてしまうのです。


「武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこ
れを放棄する」。
この第9条第1項を解釈改憲したら、「日本は非武装国家」という国際的な信用を、一
気に無くしてしまい、アメリカ以外の多くの国々との外交の悪化、小競り合い、武力
衝突、そして戦争勃発の危険度は一気に高まってくるでしょう。
憲法の前文には「政府の行為によって、再び戦争の惨禍が起こることのないようにす
ることを決意し」とあります。
広島の平和公園にある石文には「過ちは、二度と繰りかえしません」とあります。
主語がありません。
しかし、主語は前文にあるように「政府」でしょう。
政府とは内閣及び各省庁などの行政機構です。
それとともに、同じ前文で「ここに主権が国民に存することを宣言し、(略)そもそも
国政は、国民の厳粛な信託によるもの、(略)日本国民は、国家の名誉にかけ、全力を
あげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」とあるように、国民の全てが主
語でもあるのです。

文章が長くなりました。
戦争を知らない、想像力に乏しいと思われる現在の議員・官僚たち。
後年、二度と戻らぬ悲惨な日本を招来させ、「それは想定外の出来事だったから、、
、」では、到底許されるものではありません。

私は集団的自衛権の行使容認には、反対です。
(注・この文章は6月18日の夜に書いています。殆ど記憶に基づいて書いているので、
事実誤認や日時の経過で、事態の変化があった場合は、御容赦ください)

それでは良い週末を。