2014年7月1日、安倍政権は、憲法第9条の解釈改憲となる「集団的自衛権の行使容認」
を、閣議決定しました。
政府は、これから関係法令の改正等を一気に強行し、マスコミを抱き込みながら反対
派の懐柔・世論操作を強引に推し進めていくことでしょう。
有権者総数のたった2割の票(信託)で、独裁的な政権運営をしている安倍首相及び
政権政党の自民党。
(先日の都議会での自民党議員のヤジ(暴言)問題も、最近の自民党員の傲慢さの表
徴ではないでしょうか)
その自民党に、「平和の党」の看板が泣く追従をし、連立政権に居残った公明党。
この戦後最大の政策について、総選挙を実施して民意を問い、そして国民投票で憲法
改正を図るのが、立憲・民主主義国家の常道ではないでしょうか。
しかし、国民無視・国会軽視・立憲主義破棄の行動に走る自公政権と、その応援団で
ある、多くのマスコミ。
2日(水)の「夕刊フジ」では、「安倍決断「国民の命を守る」。集団的自衛権、米国
は歓迎」との1面見出し。
何で国民の命を守ると断言できるのか?
栗栖・元統合幕僚会議議長は「政治家やマスコミには、自衛隊は国民の命を守るもの
だと誤解している人が多い。武装集団の自衛隊の任務は、国の独立と平和を守ること
で、国民の生命・財産を守るのは警察の仕事だ」と述べています。
集団的自衛権行使容認の一例として「紛争地域から逃れる日本人を乗せた米艦が襲撃
されたら、日本は黙って見ているだけ、で済みますか?」と首相は述べていましたが、
米国から即座に「日本人を艦船に乗せることはない。まずは米国人。
そして英国人、、、」との見解が発表。
まさに政府は、会議室であれこれと机上の空論、想定問答を練り上げて、都合のよい
答弁を生んでいる場当たり的なシーンが連想されます。
弁舌巧みに「国民の命を守る積極的平和主義です」と唱えていれば、すいすいと物事
が通ってしまうと。そしてそれがまかり通ってしまったのでしょう。
実に異常で空疎な我が国の政治状況。
「集団的自衛権の行使容認は限定的。限定的だから大丈夫、安心」と述べていますが、
いざ武力衝突が勃発した状況では、「新3要件」(同盟国への武力攻撃の発生で、我が
国にも危険がある場合→他の適当な手段が無い場合→必要最小限度の武力を行使)に
基づく限定的解釈などの机上の空論は、緊張と緊急を要する突発的な現実の前では、
簡単に吹っ飛んでしまうことは容易に推測できること。
「限定的に」とか「原則的に」とかの言葉は、全く当てにはならないことぐらい、ど
んな愚かな議員でもわかるはずです(しかし、戦争体験のない、それも我利我慾で代
議士になった人には、想像力が働かないのかもしれませんが)。
ある新聞では、大きな見出しで閣議決定を賛美し「中韓 動揺」と、快哉を上げてい
ます。
軍事力を増強し、尖閣諸島で日本を挑発し続ける覇権国家・中国の横暴には、殆どの
日本国民が不安と不満を募らせていることは事実。
しかし、集団的自衛権の行使容認の閣議決定により、「これで重石ができた。中国も
容易に手が出せなくなる」と、短絡的に考えて同調している国民も国民。
では、何が「日本に対する攻撃の抑止力を高める」のか?
日本の唯一最大の同盟国・米国とはすでに日米安全保障条約を締結し、尖閣諸島も米
軍の支援地域であることは、先刻確認済み。
その日米安保体制のために、日本は戦勝国・米国に対し、戦後一貫して多くの米軍基
地の土地を差し出し、巨額の金を提供してきているのです。
我が国の平和憲法に基づく「不戦と民主主義」の思想を前面に出した、粘り強い外交
力を駆使し、さらに普段から個別的自衛権の強化を図ると共に、日米安保の信頼性の
確保に努めることが、我が国の安全保障の要諦ではないのでしょうか。
一方。
米国は「地域と世界の平和と安定に大きく寄与しようとする日本にとり、閣議決定は
重要な一歩だ」と歓迎。
それはそうでしょう。
米国は財政赤字・国防費の増大に悩み、かっての世界の警察の役割も疲弊化してきて
います。
だから、その一翼を日本に担わせることが狙いのはず。
(公明党の支持母体・創価学会が、「集団的自衛権反対」の声明を出した途端、渡米
中の日本の内閣参与の方が「政教一致の問題が生じる」といったコメントを発した後、
慎重の姿勢をとっていた公明党が、にわかに与党協議に順応して行ったのは、当然に
裏で何かあったことを少なくない国民は想像していたはず)
まさに「ショー・ザ・フラッグ!(日本も戦場に出てこい!)」が米国の積年の強い
要求だったから、今回の「行使容認」の閣議決定には、ニンマリでしょう。
「朝鮮半島、東及び南シナ海の安定のために、これから日本は大きく寄与すること」。
これが米国の要求でしょう。
要するに、「集団的自衛権の行使容認」の閣議決定は、戦後初めて国防軍(自衛隊)
が外に出て行き、武力行使することを可能にしたということ。
「日本は、いつでも戦闘を開始出来る国になったのだぞ!」と、世界に宣言したこと。
これを「中国や北朝鮮などの攻撃に対する抑止力」と理解するのは、余りにも単純で
はないでしょうか。
抑止力と挑発・一触触発は、紙一重。
兄貴分・米国の代貸として、アジアを先頭に世界中で「世界の警察」の一部の役割を
担う責務が生じたことと、中国や北朝鮮とは、まずは米国に頼らずに自己責任で戦う
ことが第一義的になった、と解釈した方が現実的ではないでしょうか。
ともあれ、戦後69年間の不戦を誇り、立憲・平和主義を掲げてきた日本は、2014年7月
1日をもって終焉したと言っていいでしょう。
私が生きている間に、この日が日本の歴史の大きな転換点となったことが、社会科の
教科書に「過ちは二度と繰り返しません」として掲載される時が、果たして来るので
しょうか?
「さようなら、不戦国家、良き日の日本!」
それでは良い週末を。
(先週、この手の話は当分の間しないと述べましたが、今回が本当に最後です)