初秋の読書(3)

初秋の読書と題し、9月上旬に気のおもむくままに読んだ書物の感想を、過去2回述べ
てきました。
当初は、6冊プラス1の全てを1回で紹介しようと考えていましたが、それぞれの文章の
抜粋と感想が冗長になったため、今回で3回目になってしまいました。
初秋という表現が、そろそろそぐわない季節に入っています。
今回は、残りの1冊プラス1について、書物の断章を借りながら思うところを述べてみ
たいと思います。

6冊目の本は、中野孝次の「閑(かん)のある生き方」(新潮社)。
ハード・カバーの単行本で、2003年7月に発行されています。
ということは、今から11年前、私が55歳の夏にこの書籍を購入したはず。
少なくとも、その3カ月後に控えた56歳の誕生日前には、読んでいたはず。
なぜなら、この年の夏は「三重県厚生農業協同組合連合会」の常務理事就任について、
ある人から内密に打診され、やんわり断ったのですが、内心では「そろそろ第2の人生
に移行する時だな」と、翌春での何らかの転身を真剣に考え始めていたからです。
その頃に、偶然書店で手にした本書は、まさに干天の慈雨でした。
不安と迷いに揺れながら、新たな生き方を強く渇望していた心を、その奥底から優し
く潤してくれ、早期退職後の人生に確信を与えてくれた、後半生の指南書ともいえる
ものでした。
その証左として、当時、1頁1頁を貪るように読んでは特に強く共鳴する箇所に緑の付
箋を貼っていたのですが、その付箋がおびただしいほどになっていることがあげられ
ます。

ここで、著者の中野孝次氏の概略を記します。
氏は大正14年(1925年)生まれ。東京大学文学部独文科卒。
国学院大学教授を55歳で早期に退職し、文筆家に。
その後、何冊ものベストセラーを物しています。
例えば。
「考えてみれば、私の半生において愛と言う感情をこれほどまでに無拘束に全面的に
注いだ相手はいない、という気さえする」
と言わしめた、夫婦二人だけの生活にうるおいをもたらせた愛犬(柴犬)ハラスとの
日々を描いた「ハラスのいた日々」(文春文庫)。

あるいは、人々がバブル景気に狂喜乱舞していた時期のただ中で、敢然と世の中の金
儲け主義に警鐘を鳴らした「清貧の思想」(文春文庫)
「日本には物作りとか金儲けとか、現世の富貴や栄達を追求する者ばかりではなく、
それ以外にひたすら心の世界を重んじる文化の伝統がある。
ワーズワースの「低く暮し、高く思う」という詩句のように、現世での生存はあたう
限り簡素にして心を風雅の世界に遊ばせることを、人間としての最も高尚な生き方と
する文化の伝統があったのだ。
それは今の日本と日本人見ていては、余り感じられないかもしれないが、私はそれこ
そが日本の最も誇りうる文化であると信じる。
今もその伝統(清貧を尊ぶ思想と言っていい)は我々の中にあって、物質万能の風潮
に対抗している。
それは現代の日本の主たる潮流ではないから、あえて「一側面」と遠慮しておくが、
実は私はこれこそが日本文化の精髄だと信じているのだ」

平成16年(2004年)、79歳で逝去。
私は氏の随筆集は殆ど読んでいますが、彼の筆致というより人となりを表現すると、
「典雅」あるいは「気骨」の人。
特に前述の断章からも容易に想像がつくところですが、「欲なければ一切足り、欲あ
りて万事窮す」という良寛の詩が、氏の思想の真髄でしょう。
そこで本題の「閑のある生き方」から、印象に残った文章を抜粋します。
ここでは、40代の会社員である甥に対する、手紙形式の記述を。

「君が仮に会社の中で功をあげ、会社に利益をもたらし、昇進したとしても、そんな
ことは君が60過ぎて定年後の生活に入れば、もはや心を満足させる事柄でも何でもな
くなる。外界の出来事は速やかに過去に属してしまう。外の事での成功はいっときの
ことで、次に君が失敗すれば消える。しかも外のことはあくまでも外にあることであ
って、決して心に充実をもたらしはしないのだ。心の事柄は外の事柄とは次元が違う
のだから。
君が老いてもなお昔のことで君に残り、君を豊かな気持にするものがあるとしたら、
それは君一個の個人的な体験だろう。人は定年を過ぎると元の一個人に戻る。
組織との関係は消え、少年の時と同じまっさらの自分に帰る。そのときあるのは
自分に対する自分の関係だけだ」
この文章は、11年前の私の心を揺り動かし、改めて我が座右の銘「たった一度の人生。
一日生涯」の意味合いを噛みしめ、翌春での転身の決意を生んだとも言えます。

そして、あと1週間で67歳になる今。
今度は次の文章が、やはり心をすみやかにさせてくれるのです。
「老いたら、身体能力の減退も、肉体のあらゆる衰えも、そういうことすべてをある
がままに認め、受け入れ、肯定しなければいけない。自分の今を肯定して日々を生き
る。これができなければ(ヘッセはそこで、品位ある代表者と言っている)品位ある
老人ではありえないのだという。
この自分の存在全部の全肯定、これこそが年齢を問わず人にとって最も大事なことこ
とで、安心とか悟りとかいうのは、この境地に達することだ、と僕は思う。
その点では、若いも老いているも全く変わらないのだ。この境地に達した人が救われ
た人なのだ」

「とにかく僕自身は、60の還暦から昨年喜寿を迎えるまでのかなり長い老年を、こ
れぞ人生の一番いい時と思って生きてきた。そして今もその自由を楽しんで一日一日
を生きている。自分の自由にならぬことについては、あくせくせず、運命に任せる。
自分の自由になることは、これは目一杯それを働かせ、享受する。
我が身だから健康には留意し、規則正しい暮らし、食事、歩行を行い、養生に心がけ
るが、いかに努めてもついのところ身体は因果の律を免れず、運命に任せるしかない。
寿命についても同じこと。家族の健康や愛する者たちの寿命についてもしかり。そう
いう権能下にないことについては、運命を受け入れ、じたばたしない。
(略) 生きてある限り、一日一日、その日の「今ココニ」がすべてと念じ、生きてい
る今を喜び、楽しむ。
そういう気持で僕は生きることをつとめている」
9月4日のこの欄では「楽観と悲観」と題し、現在の先行き不透明で、閉塞感に満ちた
社会状況について、「楽観も悲観も諦観もしない。私は達観する。その意味合いはい
ずれまた」と述べましたが、その発言の源泉の一部となるのが、この文章の意味する
ところと一致すると言ってもいいでしょう。

さて、最後のプラス1は。
「哀愁の町に霧が降るのだ(上)」(椎名誠・著、小学館文庫)です。
この単行本が発行されたのは1981年。
それが文庫本化されて先月8月10日付で発行されたのです。
物語は著者の3人の仲間たちと、江戸川区小岩にある老朽アパートの6畳一間での間借
り生活を、リアルに描いたもの。
汗と酒と腐臭と仲間意識に溢れ、ハチャメチャにエネルギッシュで馬鹿馬鹿しくも哀
愁に満ちた貧乏生活が、これでもかと書かれています。
解説文で、茂木健一郎氏(脳化学者)が「青春のバイブル」と絶賛しているように、
今時の小説ではお目にかかれないユーモアが満載している一冊。
プラス1としたのは「下巻」をまだ読んでおらず、全体像を語れないからです。
テニスや野球などで、あるプレーヤーの快挙があると、テレビでは決まって「元気を
貰った、勇気を貰った」との定番フレーズが飛び交う昨今。
私など「元気や勇気などは、貰ってばかりいるものではないでしょう。自分の心身で
能動的につかみ取るものでしょう。それが青春でしょう」と、嫌味の一つも言いたく
なります。
若い人たちには本書を手にとって、青春の苦味と醍醐味を感じ取って貰いたいもの。

以上で「初秋の読書」を終わります。
「くだらない本ばかり読んでるなあ」と苦笑される向きもあるでしょうが、我が国の
地域保健・農村医療の巨星・若月俊一氏(佐久総合病院・元院長)は、生前、若き医
師たちに「医者は患者の心がわかるようにならなくてはいけない。そのためには、も
っと小説を読むべきだ」と諭していたそうです。
私は「医者」を「会社員、役人、教師、親、、、」、「患者」を「人」に置き換えて
も良い、とひとり合点して
いるのですが。

それでは良い週末を。