「おいおい、そんなに切れないでくれよ・・」と、内心で苦々しく思っていました。
先日の3連休の中日、11月23日(日)の朝のこと。
場所は、駒沢大学駅前の喫茶店「ドトール」。
私は多摩プラーザの兄の家に、11時に伺う予定で家を出たのですが、まだ時間がある
ので珈琲を飲んでから向うことに。
広い店内は客数もまばら。
このいつもざわついている大型チェーン店において、休日の朝は静謐な雰囲気が一瞬
漂う時間。
私は店の奥の壁側の、店内を広く見渡せる席に座り、BGMの心地良い音楽に耳を傾けな
がら、モーニング珈琲をゆっくりと味わっていました。
「これが休日の朝の、正しい過ごし方の一つだ」と満足しながら。
すると突然、斜め右のカウンター席の方から、男の怒鳴り声が豊かな静けさを切り裂
いたのです。
驚いて視線を凝らすと、カウンター席の右端に座ったカップル、それぞれ20代後半と
おぼしき男と女が怒鳴り合ったのです。
二人とも身なりは普通で、どちらもそれなりの大人の風貌。
男はカジュアルなズボンに厚手のセーター、女はグレーのツーピース。
この店で良く見かける茶髪やピアスや着けマツゲをした、チープな服装(カジュアル
とは言い難い)の大学生や高校生ではないよう。
男は珈琲カップを受け皿に叩きつけるように置き、正面を向いたまま。
女は男に向って「そんなに怒ることじゃないでしょ!」と、これまた静まり返ってい
る店内に響き渡る大声でやり返します。
他の席でうつらうつらしていたオジサンが、慌てて席を立っていきます。
男はまた、興奮気味に声を荒げて二言三言反論。
これに対し女は「私が言っている意味がわからないなら、メールを送るわよ。メール
を読んでよ!」と切り返し、スマホに向って何やら操作し、「いま送ったから、読ん
でよ!」と。
男はまずそうにパンを頬張りながら、自分のスマホにチラッと視線を。
女は再び「そんなに大声出して怒ることじゃないよ!」と憤慨しながら、男の横顔を
覗いていましたが、男は黙々とパンにかじりついているばかり。
私は、その二人のやり取りを見ていて珈琲が急にまずくなり、「つまらない喧嘩で声
を張り上げるなら、外でやれよ!全く、今の連中は気味悪いほどおとなしいが、ちょ
っとしたことですぐに切れて吠える。
お前ら餓鬼か!」とは怒鳴らずに、ここは大人しく席を立ち、のどかな光が満ちてい
る店外に出たのです。
それにしても、大のオトナが他の人達がいる店内で大声で怒鳴り合うことは、はたに
迷惑なことで「みっともない」ことだという自制心が働かないのか?
メールでなければ会話のやり取りが出来ないのか?
怒り狂ったカップルが上手く会話できず、隣同士で無言でスマホを通してやり取りし
ているだろう姿を思い浮かべ、私は妙に可笑しくなり、そして空しくなったのです。
兄の家での昼食・歓談を終えての帰り。
私は一度、青山1丁目駅の事務所に出てから再び田園都市線に乗車。
隣の表参道駅で、40代後半とおぼしき育ちの良さそうな夫婦が、手押し車の老母を介
助しながら乗ってきました。
「母さん」と呼びながら母親の背中に手をやって介助している息子の姿を見て、私は
感心しました。
そして電車が渋谷駅を過ぎて池尻大橋駅に着くと、その親子も私も降車しました。
私は、本来は三軒茶屋か駒沢大学が乗降駅ですが、ここの本屋に寄ろうと思ったから
です。
よたよたと手押し車にすがりながら歩いている老母。その肩に手を置いて介助しなが
ら歩く親孝行の息子と、その傍らの上品そうな嫁。
私は「いいシーンだな」微笑ましく思いながら、ゆっくり彼らの後を歩いていたので
す。
すると。
またもや、「すると突然」です。
背の高い息子が、小さな老母に向って大声を出したのです。
「あんた、その恰好で渋谷のバス停までどうやって行くの!」
男のこの言葉は鮮明に聞こえます。
老母が何か悲痛に喋っています。
「俺の言ったことわかってんのかよ、このくそババア!」
人影が絶えたホームの端々まで響く怒鳴り声に、私は仰天し、そして言葉の内容に愕
然としました。
信じられません。
嫁が「そんなに大声を出さなくても・・・」と小声でたしなめています。
年老いた親の介助や介護を日々連綿と続けることの大変さは、私にも十分に想像でき
ます。
だから、はたで見ているほど親子関係が悪いわけではなく、激しく辛辣な言葉のやり
取りの中には、面倒を見て貰う親と、介助をする子にしかわからない信頼できる何か
があるのでしょうが。
それにしても、私には腹立たしくもやるせない光景に見え、急いで追い越して去った
のです。
以上のごとく、この日は朝夕の2回、不愉快でもの悲しい光景に出会いました。
最近、この様に公共の場で突然として怒鳴る人を、たびたび見かけます。
若い子から年寄りまで、何かの拍子に逆上してしまうのです。
社会が殺伐としてきています。
政治は民意を無視して専横化し、社会は優勝劣敗、弱肉強食の論理がまかり通り、国
民は自分本位・我利我慾に狂奔しているように、私には映ります。
みな、他人の心配をする余裕はなく、自己防衛に走っているのでしょう。
だから人心が乱れてくるのです。
また「勝ち組」というか既得権益を貪っている人々は、自分が困らなければ、政治に
も社会問題にも我関せずで、現状追認。
弱者や貧者を見ても「自己責任の問題」と受け流すでしょう。
国民や地域住民のために、我が身を捨てて尽くす政治家や公務員も、世の中にいなく
はないでしょう。
しかし殆どは、自分の収入確保と立場を守ることしか考えていない、と私は推量して
います。
そうした一方で、巨大地震や大噴火などによる激甚災害が、ふたたびいつどこで発生
するか予断を許さず、同様に、1,000兆円を超える国の借金がどんどん膨らんで、いつ
財政破綻してもおかしくはないのが日本の実情。
さらに11年後の2025年には、団塊の世代(昭和22〜25年生まれ)の全てが75歳以上の
後期高齢者に突入し、未曽有の「超高齢社会」が出現。
現在の社会構造は激変せざるを得ないでしょう。
現在にも将来にも、これほど明るい材料が乏しい時代を、私は今だかって知りません。
不安と困難と鬱的な閉塞感に満ちた社会。
多くの人々は疲弊するような思考を中断し、ささやかな目先の快楽にうつつを抜かし
て、刹那的に毎日を生きているように映ります。
だから、今日もどこかで多くの人が、やり場のない鬱憤を晴らすために「切れて」い
るのでしょう。
個人一人ひとりが我慢する忍耐力を養うこと。そうした家庭教育・学校及び社会教育
を進めることが緊要。
でも、それにも限度があります。
我慢し続けると、忍耐力が乏しく真面目な人は精神がやられ、身体が崩れます。
だからその前に、やたらに弱い者いじめやパワハラ・セクハラで鬱憤晴らしをする者
が続出しているのでしょう。
そして危険ドラッグや大酒や不法な博打や買売春に走り、さらに暴行・恐喝・詐欺・
強盗・殺人などを犯してしまうのではないでしょうか。
人間社会では「自助」が基本。
しかし「共助」と「公助」を軽視した人や社会には、希望がありません。
希望の無い人や社会には、喜びや感動が生まれません。
だからといって、ぶち切れていても、何も生まれません。
怒りは、人間の尊厳を守るためには大事なこと。
それをどの様な形で表すのか。
切れるとは、「つながりが切断されること。物事が尽きること」
悪い縁は切りながらも、色々な人との良縁をつなぐこと。
切れる前に、一息ついて、自分の可能性を見つめ直すこと。
嫌な人は適当にスルーし、危険があれば逃げ、心沈むことは避け、そしてまずは自分
なりの目標を持ち、その実現のためには「石の上にも3年」の気持で辛抱すること。
自分の将来を規定する社会環境を少しでも良い方向へ変えるために、せめて国政・地
方選挙の投票で棄権をしないこと。
そして、拙くても正直な自分の言葉で、一人でも多くの人と話してみること。怒りを
話し合ってみること。
その延長線上に、きっとその人なりの「希望」が見いだせてくると、私は確信をして
います。
たった一度の人生。
「だから、切れないで!」
それでは良い週末を。