今年の年賀状も、1月18日に「お年玉付き年賀はがき」の当選番号が発表されて、用
済みとなりました。
今は本棚の隅に、それまで積まれていた昨年の年賀状に取って替わっています。
自室の畳の上に正座し、去年いただいた年賀状をさっと再読しながら、黙々とハサミ
で裁断してごみ箱に入れました。
今年の年賀状もパソコンの住所録の追加・変更・削除を済ませれば、お役目御免です
が、一応、1年間は保存。
こうしたならいを毎年続けながら、最近は年賀状の妙味というか、やり取りの嬉しさ
が希薄になってきており、年賀状への愛着が急減してきたことに気付いてうろたえま
す。
「もう、そろそろ廃止するか・・・」と。
その要因の最たるものは「パソコン処理や画一的な文面作成で、差出人の年賀の心、
初春の息遣いが全く伝わってこない」ことにあります。
具体的には@「謹賀新年」などの常套句に、その年の干支の絵が印刷された定形的な
年賀状。
添え書きは全くなし。裏も表もPC処理。
せめて御本人の現在の気持が伝わってくるような文面が1行でも入っていると、嬉しい
のですが。
この種の差出人は、昔の職場の方や仕事関係だった方が多いようです。
今では殆ど交信もなく、顔を会わすこともないのですが、長年の惰性から儀礼的に出
されていることが、容易に推察されます。
次は、A上記の賀状が干支の版画や、子供や旅先などの写真に変わったもの。
手作りで好ましいのですが、猪か馬か羊か判別しがたい手荒な版画や、旅先の写真だ
けを拝見しても、興趣が湧かず。
また、本人不在で赤ん坊や子供の写真だけ見せられても「・・・」です。
私の子供達から、孫の写真をイラストした賀状を送られてきたら、我が子供や孫だか
らそれなりに愛着感も湧きますが、まさに他人の子供や孫の写真を新年早々に見せら
れても、失礼ながら戸惑うばかり(気持は十分にわかりますが)。
「それより、貴方の顔写真を見せてくださいよ。少なくとも1年以上お会いしていない
ので、顔も忘れそう。お互いに来年があるとは思わず、今の本人同士で向き合いまし
ょうよ」と呟きたくなります。
版画や絵や写真に、近況報告や添え書きが1行でもなされている賀状は、親近感が持て
ますが。
こうしたことをだらだらと書き述べても、詮無いこと。
要は、私の側の責任。
それは、私が先方に賀状を送るから、毎年「儀礼的な賀状交換」が継続してしまうの
でしょう。
私の性分は、「賀状が来たから出す」のではなく、「賀状を出したい(出すべき)人
だから、出す」。
この性分と先方とのミスマッチがあるのかも知れません。
そこでこの3年間で、700名ほどへの賀状を徐々に減らし、今年は400名ほどに絞り込ん
できたのです。
それでも、「ん?この方は私が出した後の返信だな・・。私の賀状を受けて
からやむなく出されたのでは。煩わしい思いをさせてしまっているのか」と憶測でき
る賀状も、まだまた散見されます。
話は変わって。
私は以前から、周囲の人達に「自分の半径3メートルの範囲が心地良ければ、それが幸
せの要諦」といった駄弁を弄してきました。
朝起きてから夜寝るまでの間、どこにいてもその半径3メートルほどの空間が心理的、
肉体的に不愉快や苦痛を生じる人や物が介在せずに、願わくば心が愉快になる時間に
満たされているならば、それが大きな幸せ。
この3メートルというエリアには、厳密な意味はなく、「自分の最小限の周囲」の比
揄。
目にするもの、耳にするもの、触れるもの、語るものが過不足なく自分に影響を与え
る範囲。
特に人との関係では、常にこの半径3メートルが大切。
路や廊下で出会った人と、「やあ!」と軽く挨拶を交わせるのも、3メートルの間隔が
あれば良し。
座席でも立食の場でも、前の人と話をし、後ろの人を振り返って言葉を交わすのも、3
メートルの半径の円心にいれば、目も気も十分に配れます。
電車やバスに乗車している時も、この範囲内の同乗者が社会性のある人達だと、安心
で楽。
職場でも、自席の半径3メートル内の席の人によって、労働環境はがらりと変わります。
この範囲内での職場生活が快適な人は、幸せ。良い仕事が出来るでしょう。
この半径3メートルの面積は、3m×3m×3.14=28.3u。
和室の6畳は約10u弱。畳半畳が概ね大人一人が居られるスペースとして、6畳だと大
人が12名。
半径3メートルは、その約3倍の広さなので、約40名近い人が少時間なら立ったり座っ
たり出来る計算に。
この約40名以内と言う数が、どうも人が集まる時の重要な目安になると考えているの
です。
いま読んでいる「社会学入門・人間と社会の未来」(見田宗介著・岩波新書)。
その断章。
『「人はどれだけの土地を必要とするか」というロシアの童話があるが、人はどれだ
けの関係を必要とするかということを、私達は問うてみることができる。
他者のない生は空虚であり、一切の他者の死滅した後にただ一人永遠の生を享受する
生は、ほとんど永劫の死と変わりのないものであるが、この生が生きるということの
意味を取り戻し、喜びに満ちた生涯であるためにさえ、他者はたとえば、数人で充分
であるということもできる。
私の思考実験では、極限の場合、激しい相互的な愛が存在している限り、この他者は
一人であっても、なお永劫の生を意味づけるに足るものである。
最大限に考えて数十人という、純粋に愛し合う人々に囲まれた生が、歓びに充ちた生
であることにとって、なお不足があるという欲張りな人は、少ないと思う』
先々週の金曜日に、「一般社団法人・東井悠友林」の新春交歓会を開催しましたが、
この法人の現在の会員数は60名。
この程度の人数が、まさに半径3メートルの範囲内の間隔で相対でき、お互いの心を
通い合わせることが出来る適正数でしょうか。
交歓会の参加者数は27名。
今まで10回近く集いを開催してきましたが、毎回ほぼ30名ほどの参加者数。
会員のうち、20名弱は東京近郊以外の遠方に住んでおられるので、私は毎回の参加者
数を失礼な計算ですが「東京近郊の会員数の七掛け」と推測しているので、ほぼ妥当
な数値だと判断しているのです。
先の書物で「人はどれだけの純粋な人間関係を必要としているか」という命題に対し、
著名な社会学者である著者は「一人から最大数十名」と述べていますが、私はとても
示唆に富んだものだと、深く同感した次第なのです。
さて、今年の年賀状は、果たして半径3メートルの外なのか内なのか、はたと悩んで
しまった今年の新春でした。
それでは良い週末を。