「東井さんの週末エッセイは、私の家内も毎回読んでいるのですが、この前『「東井
さんはエッセイでは色々なことを書いているけど、奥様のことには全然触れないのよ
ね。なぜなのかしら?』」と、家内が訝しげに言うんですよ。だから『東井さんは、
そんな身内のことは書かない人なんだよ』と言っておきました。でも家内は「そんな
のおかしい。奥様の存在を軽んじているみたい」と不満気でしたよ」。
これは先日、酒席の帰りに立ち寄った喫茶店で、後輩のA君が何気なく話してくれた
もの。
私は苦笑しながら「君の言う通りだよ。女房や子供や孫の話を得々と述べる人がいる
が、それはそれでいい。
しかし俺の主義ではないな。
エッセイでも雑談でも、なるだけ身内の話は避けているんだ。未婚の人もいるし、子
供や孫がいない人もいるのだから、こちらの話を読んだり聞いたりしても、面白くな
いじゃないか。少なくても、俺が反対の立場だったら違和感を感じるだろうな。
ただそれだけの理由。他意はないね」と、答えておきました。
家族については、今までに息子二人の独立(社会人になって家を出ていくこと)や結
婚時の話を過去のエッセイで述べたことはありましたが、それは「子供が成長して巣
立っていく時の喜びと寂しさ。親子でもいつか別離せざるを得ない人生の宿命」を深
く実感したので、二度とないであろう出来事として、ついつい書き記したまでのこと。
配偶者については、今までのエッセイのメインで述べたことは記憶にありません。
何かのテーマの中で触れても、「配偶者」という言葉を用いています。
うちの女房、妻、家内といった表現は、個人の内側をあえてさらすような気がして、
私は余り好まないのです。その点、配偶者という言葉は法律的で、無機質な感じがあ
るので対外的な文章で用いるのに適当、と思っているのです。
私個人がそう思っているだけで、うちの女房と言おうが何と言おうが、人それぞれの
勝手。
良し悪しの問題ではありません。
話題がそちらのほうになっているので、ほんのちょっと配偶者のことにも触れます。
私が25歳の頃、母にこう言われました。
「トモヒトの結婚相手には、気が強い女性は合わない。
結婚するとしたら、空気の様な人がいい。
あっても気にならず、なかったら困るような」
配偶者とは2年間ほどの付き合いの後、私が27歳の時に結婚。
結婚式の直前、それまで外務省(その前は厚生省の政務次官付き)に勤務していた彼
女に、「結婚したら役所はどうするんだ?続けても辞めても、俺はどっちでもいい」
と聞いたところ、「辞めます」ときっぱり。
私は「そうか。それなら家のことは頼むよ。特に天気のいい日は布団を干してな」
頷く彼女に「この際、何か言うことある?」
するとポツリと「外であったことは(注・異性との交遊と解釈)、私の耳に入れない
でね」。
結婚式は仏滅の日に。仲人無し。友人・先輩・知人らによる会費制の披露宴。お色直
し無し。
結婚後の住まいは、適当なアパートが無く、当面の措置として、私が彼女の6畳1間の
アパートに布団と茶碗だけを持参して入居。
こうして結婚生活がスタート。
それから40年。
いまは3人の子供達は全て30代となり、社会人として立派に働いている様子。
この40年間の出来事を述べたら、波乱万丈、疾風怒涛。
1冊の本にしても足りないぐらいの、色々な想いが満ち満ちていますが、今は天気晴
朗、日々好日。
今日も台所の隅で、小さな背丈の配偶者が、何かことことと家事をしています。
そして私は、誰にともなく「お蔭様・・・」と呟いている、今日この頃なのです。
それでは良い週末を。