・2003年4月1日→午前9時40分:厚生労働省から人事異動辞令を交付される。
(厚生労働省東京検疫所次長職)
・2004年3月31日→午前9時50分:厚生労働省から退職辞令を交付される。
(省内外に退職の挨拶回り)
・2004年4月11日→午後4時:三重県津市の本部における、三重県厚生農業協同組合
連合会理事会に出席。
(私の常務理事選任決議。就任挨拶)
以上は私が厚生労働省を退職する前、1年間の人事異動関係の記録。
今から11〜12年前の事ですが、その後、春が来るたびに役所や企業などで働く後輩た
ちの人事異動に思いがめぐり、この当時の私の希望と不安と緊張と発奮に波立った我
が心境と照らし合わせ、甘酸っぱい気分に襲われるのです。
55歳で迎えた2003年4月からの1年間(実質的には後半の半年間ほど)。
それは、様々に心が揺れ動き、思考が逡巡して苦悩した時期の一つでもありました。
長年勤務した役所(厚生労働省)を定年を待たずに退職し、未知の民間医療団体の役
員として再就職するかどうか。
これは役所の人事ルートとは全く関係が無く、私的な水面下で進められた(懇願され
た)話なので、判断と責任は私一人にありました。
通常は57〜58歳の頃になると、60歳の退職年齢を待たずに「勧奨退職」の話が打診さ
れ、ほぼ100%の確率で、誰もが役所の認可法人などに、いわゆる「天下り」をしてい
くのが通例。
私のようなケースは異例。だから色々と考え悩みました。
三重県という住んだことのない新しい地域に赴き、結婚後初めての単身生活をしなが
ら、未経験の医療分野(6つの病院経営)の役員として働くということ。
役所の庇護から抜け出して、自分の判断と責任で新しい組織に入って行くこと。
果たしてこの招聘話は、56歳からの私の生き方にとって良い話なのか、それともリス
クが多すぎる話なのか。
結果は、冒頭に記載の様に厚生労働省を早期退職し、転職したのです。
人生の後半における、大きな転機の一つでした。
私は、自分の生き方の選択とか決断を迫られたときは、いつからの習いかは判然とし
ませんが、必ず小さな雑記帳(Campus B中横罫)に、偉人・文化人の格言や目につい
た発言を書籍や雑誌から抜き書きし、それを折を見ては取り出して眺め、自問自答す
る際の参考としていました。
さらに職場外の先輩知人らとの雑談の中に示唆に富んだ話(アドヴァイスなど)があ
ると、これも雑記帳に素早く記録しておき、あらためてその意味合いを喫茶店の片隅
などで考えたものです。
この雑記帳が無かったら、役所とは何のつながりもない新たな組織へ転身するという
リスクに躊躇し、現状維持を是認し、それまでの誰もと同様に役所が敷いたレールを
歩んで晩年を過ごす選択をしたかもしれません。
しかし、やはり、それは無かったでしょう。
何故なら、私は50歳になった頃から「定年後の生き方」をうっすらと模索していまし
たが、歴代の諸先輩と同様に役所の敷いてくれたレールの上を黙然と歩んでいくこと
は、全く考えられませんでした。
なぜなら、役所の延長線上にぶら下がった生き方は、無難であるけれど「つまらなそ
う」だったからです。
その考えを確かなものにしてくれたのは、ある日の「雑記帳」。
役所の大先輩で、当時は関係認可法人の専務理事(役所時代は室長経験者)だったA
さんに昼食を誘われ、こう助言されたことが書いてあります。
「辞めた後は、役所の斡旋でどこかの団体に入って仕えるのは、私の経験からしてつ
まらないですよ・・・・。
出来たら自分で会社等を起こしたらいい。
独立したほうがいいですよ。東井さんだったら、その方が良い。出来ると思いますよ」
白髪が長年の厳しい経験を彷彿とさせる紳士で、物静かな言いかたをされる方でした。
ノンキャリアの世界の保守的な重鎮という印象が強かったので、本来なら他のOB諸氏
同様「認可団体は、厚生省の看板で仕事がしやすいよ」とおっしゃるのが普通ですが、
そうした既成概念を排除した御意見には驚き、後の私の判断に大きな示唆を与えてく
れたのです。
雑記帳は当時で数冊にわたり、1冊にはたくさんの言葉が書かれていますが、その言
葉の幾つかを列挙してみます。
「なるようにしかならない、と思い、さらに、しかし自ずと必ずなるべき様になるの
だ、と心の中でうなずきます。そうすると、不思議な安心感がどこからともなく訪れ
てくるのを感じられる。強く悩み迷うことから本当の確信が生まれる」(作家・五木
寛之・「他力」)
「21世紀にはリスク=チャンスという発想が求められる。人は自分で決めた道を、自
分の足で歩けば、自然に足腰が強くなる」(作家・落合信彦)
「世の中を広くおおらかに受け取る。自分の人生をもっと楽しむ。要するに、人より
抜きん出ようとか、スターになろうとか、そういうことではなくて、自分が自分とし
て1回しかない人生をどうやってリラックスして楽しく毎日を充実させられるか。
そういうほうに、気持が行ったんです。そうしたら身体の具合もよくなって、ほんと
うに生きていて良かったなって毎日思えるようになりました。
だからいくつになっても、立ち止まって自分は何に向いているのか、何をすれば一番
幸せなのか、社会に還元できるのかということを、今考えても遅くはないと思うんで
すよ」(女優・結城美栄子)
「人生で最も大切なことは、大好きな仕事をすることだ」(発明王・エジソン)
「人生80年だとすれば、すでに55年は過ぎ去った。残りはあと25年だ。それも健康に
気をつけて、よく生きてのことだろう。
貧富や地位の差、うまくいった前半生も、ままならなかったそれも、みんな関係ない。
今こそ自分は自分なのだ。比較するものが一切ない心の世界をゆったり楽しむ。それ
が、これから歩いて行くべき境涯だろう」(漫画家・弘兼憲史)
「世の中にこだわることもなかりけり。我も間もなく死ぬと思えば」(禅師・菅原義
道)
「楽天家とは、事態を甘く見ているとか、何事も自分の都合のよいようになると過信
することではなくて、死力を尽くして頑張れば、そう悪い方向にはいかないものだ、
そうこうするうちに道は自然にひらけてくるものだという信念を持っていることであ
る」
「会社員や役人は、どんな会社か役所に入るかによって運命が決まり、地位や職責が
変わるたびに新しい仕事を覚えさせられるが、何でも一通りこなせるようになる代わ
りに、よそへ持っていって、そのまま通用するとは限らない」(作家・邸永漢)
「どんな時にも、自分は幸運だと、思い続ける!」(ソフトバンク・孫正義)
「日本興行銀行を退社して創業したが、頭取になっても満足しなかっただろう。独立
することで、人生を後悔するリスクを回避した」(楽天・三木谷社長)
「人間関係が多く、そこそこの金を蓄え、身体に留意しての生活。こうした生活が、
最も満たされた人生ということになるのではないか」(作家・藤本義一)
「神が与えてくれた経験(試練)と思って、受けて立つことが大切」(某社会福祉法
人理事長)
転記すれば、切りがありません。
この様な言葉を参考にしながら、選択と決断を行ったのが、今から11年前の春。
そして、その4年後。
半年の任期と、再任という可能性を残しながら、役員退任の決断を。
その決断を促した言葉も、当時の雑記帳にあります。
「元気なうちにやめなはれ。病気になってからでは、元も子もないがな」(パン屋の
おばちゃん)
「ほどほどにな。東京に帰ってからの余力を残しておかないとアカン」(91歳のクリ
ーニング店主)
「惜しまれて去れたら、ええな」(指圧師)
「三重での東井常務の役割は、立派に果たされた。きれいな引き際やな」(JAの某組
合長)
「これからは運気が上昇し、やりたいことが自ずと見えてくる。第2の人生では、ス
トレスのたまるような目標設定はせず、自分が楽しめる生き甲斐を探すべき。ボラン
テイア感覚で会社を創業するとか。
どんなことがあっても、会社を立ち上げることがいいと思う」(元会社社長の知人)
そして2007年12月末に帰京。2008年2月に株式会社を六本木に設立し、今年で8回目の
春を迎えているのです。
人生の節目節目で、何気ないことを認(したた)めた雑記帳が、私に語りかけてくれ
ます。
この春に退職される人、遠方に赴任される人など様々な異動があるでしょうが、それ
ぞれの心の雑記帳という思念を確かめながら、悔いのない新スタートを切って貰いた
いもの、と念じているのです。
「勝負は最後まで捨てない。物事は最後までわかるもんか。山より大きなイノシシも
出ない。
こわいものはない。志を持ったら、断固やるべきじゃ!」(元総理・田中角栄)
それでは良い週末を。