「ありがたい」と呟くこと(2)

それは、昭和36年(1961年)4月の第1週のこと。
あと数日で春休みが終了し、中学校2年生の新学期が始まろうとする日の早朝、午前4
時半頃の出来事でした。

中学1年生だった私は、春休みに入った3月下旬から、新聞配達を始めていました。
ようやく配達順路と配達先の家、さらには配達箇所(各家ごとに、郵便ポスト、ガラ
スの引き戸の隙間、軒先の下などと、場所が定められていた)を覚え、遅配の発生が
無くなってきた頃。
その日、私は隣家のKちゃんと、それぞれ大人用の実用自転車に乗って、地域(目黒
区下目黒)の読売新聞の集配所に向かっていました。
上空には薄明が訪れる前の闇が残り、桜の花の蕾がふくらんできた季節といえども、
大気が冷たい朝でした(当時は、4月に入っても早朝は寒かった)。
私達は、まだ眠りから覚めない静まり返った住宅街の道を抜け、「目黒通り」に出ま
した。
目黒通りは、現在でも都内の主要幹線道路の一つで、当時は住民の誰もが「大通り」
と言えばこの目黒通りを指していたほどで、特に子供の目からは道幅が大変に広く感
じられたものです。
この通り沿いにある集配所へは、大通りを横断して舗道を直進すればすぐ。
子供の私達は、サドルから尻をずらし、足を一杯に延ばして長いペダルを踏みながら、
大通りを横断し始めました。
当時は、上りと下りの車線を截然と区切る中央分離帯やポールなどはなく、一本のセ
ンターラインだけが、上下線の車道を区分する目印になっているだけ。
さらに、現在でこそ昼夜を分かずに1日24時間、様々な車両が氾濫していますが、
当時はまだモータリゼーション前の時代で、早朝の目黒通りは滅多に車が通ることな
く、閑散としていました。
私達はいつものように、自動車1台どころか、舗道にも人っ子ひとりの姿さえ見えな
い、
静かな目黒通りの左右を確認。
私が先になって渡り始め、センターラインに差し掛かった時でした。
突然、反対車線の遥か前方から、轟音を立ててこちらに爆走してくる1台の車が視野に
入ったのです。
まさに一般道を疾走するレーシング・カーと間違えるような、異様な走行。
私は驚いて渡りきることを止め、反対車線から逃れるように自転車を左に向け、走行
車線に戻り始めたのです。
しかし、爆走してくる車は、私が横断すると判断したのか、ブレーキをかけずに右に
ハンドルを切り、猛烈なスピードでセンターラインを超えて私に向ってきたのです。
私の記憶と意識は、そこで途切れました。

初めて意識が戻ったとき、私は「痛い、痛い」と泣いていました。
何が起こったかも考えられず、恐怖と苦痛の中で視野に映るものは、閉ざされた灰色
の世界。
耳には救急車のけたたましいサイレンの音が聴こえ、ヘルメットをかぶったおじさん
の「大丈夫だよ、もうすぐ病院に着くからね」という声を聞いて、再び意識を失いま
した。
救急車のなかだったのです。
次に気がついたのは、救急病院のベッドの上でした。
色々な人が出入りして、私の身体を診ていました。
私は頭と体が痛くて、すすり泣きを続け、あとのことは良く覚えていません。
それから3日3晩は、頭痛と身体中の痛さと高熱にうなされていました。
4日目に看護婦さんに抱きかかえられ、検査室のベッドにうつ伏せに寝かされ、腰に
大きな注射を打たれ、余りの激痛に泣き叫んでいました。脳内出血の恐れが無いかど
うか、脊髄穿刺をして脳脊髄液を採取したのです。
看護師さんが採取した試験管内の水の様な液体を見て、「透明できれいな色だわ。良
かったわ」と話していました。
あとでわかったことですが、ピンク色などの赤い色が混じっていたら脳内出血を起こ
しており、頭部手術が必要になったのです。
同時に、腰にギプスがはめられました。腰の骨にひびが入っていたからです。

結局、頭部外傷と腰部打撲ということで、それからベッドでの療養の日々が続きまし
た。
それでも日ごとに恢復し、一ヶ月足らずで退院となりました。
その間、多くの友達や先生や両親の関係の人などが見舞いに来てくれましたが、大人
はみな「ちゃんと前を見ていないと。車は怖いからね」と説教してくれ、私は何とか
ぼそぼそと苦笑いをして対応していました。
誰もが、事故の詳細は聞いておらず、私の容態から見て、ちょっとした事故のように
しか受け止めていなかった節(ふし)があります。
この時は、私も幼稚だったことと、また、交通事故のあらましも分からなかったので、
「運が悪かったんだ」ぐらいにしか考えが及びませんでした。
交通事故の恐怖と「九死に一生」を得た奇跡を認識できたのは、後になってからでし
た。

余談になります。
「事故当時、母親は入院中で、父は私共5人の子供を抱えながら毎日所用で出かけ、
私の見舞いに来たのは1、2回でした。私の容態が意外と軽そうだったので、安心して
病院の看護に任せたのでしょう。
私も父には事故の詳細は語らず、私が退院時、「寝る時に使用するよう」医師から指
示されて持ち帰ったギプスは、「母が退院してきたら心配するから、目に触れない様
に押入れに入れておきなさい」と、父から言われていたので、以降、母にも事故のこ
とは話さない様にしてきました。
したがって、両親にも、5人(兄は高校生で家を離れており、3人の妹弟はまだ小学生。
翌年の昭和37年に6人目の子供(末弟)が誕生)の兄弟達にも、事故の詳細は一切話
さずにきました。
私が詳細を語り始めたのは最近のことで、このエッセイ欄でも過去に1、2回、事故の
概況を述べたことがありますが、両親は事故の詳細(奇跡)を知らないまま、亡くな
っていったと思います。
勿論、兄弟や子供達にも、今まで一度も細かく語ったことはありません。
私自身、不思議と事故のことを思い出すことはなく、また思い出しても年月のせいか
実感が湧かず、日々を夢中で過してきたからでしょう」

あの日、私の後ろに着いて走行していたKちゃんは、目の前で私が自動車にはね飛ば
されるのを見て動転し、泣きながら新聞集配所に駆け込み、「トモちゃんが自動車に
ひかれて死んじゃったあ!」と叫んで泣きじゃくったそうです。
店主がその時に聞いた話では、私が自転車もろとも100メートルもはね飛ばされたと
のこと。
時速100キロを優に超える、猛烈なスピードで疾走してきた自動車と衝突。それも広
いアスファルト・コンクリートの道路の真ん中で。
本来なら、100%即死することは間違いないでしょう。
それが、奇跡的に打撲傷程度で生還できたのです。
退院間近に、警察と病院の関係者から、初めて事故のあらましを聞かされました。
その時は子供心に「そんなことがあるのか・・・」と神妙になりながらも、余り切実
には考えられませんでしたが、その後、徐々に事故の実相に実感がわいてきて、初め
て事の重大さに気が付き「奇跡的だったのだ・・・」という感慨で胸が震えました。
偶然が幾つか重なって、「生還」という奇跡が生まれたのです。
その万が一の確率としか言いようのない、事故の現状を述べてみます。

私は、爆走してきた自動車に激突し、自転車もろとも激しく跳ね飛ばされました。
@ 自動車は、ビートル(カブトムシ)に似た型をして、当時人気が出てきた外国車
のフォルクスワーゲン。
この車は車の先端部分からボンネット(車体の前方部分)に至る形状が、他の車種と
は異なり、カブトムシの甲の様になだらかな形状をしています。したがって、テニス
のラケットの面を地面に垂直にせず、やや寝かせて(開いて)打つロブ・ショット
(高くゆるい球)の様に、自動車のフロント部分で自転車と私の身体は高く跳ね上げ
られたのだと、推察できます(これが他の車種だったら、低く短く跳ね飛ばされ、1%
の可能性もなく道路に叩きつけられて即死していたことは、論を待ちません)。
A 私の身体は高く遠くに跳ね飛ばされました。固いコンクリート道路に叩き落ちた
ら、身体はぐしゃぐしゃになります。
しかし、遥か先の道路脇に停車していた乗用車のボンネットに身体が命中し、バウン
ドして道路に落下。
現在でも早朝の幹線道路に駐車している車の姿は少ないですが、当時は今と比較して
自動車の台数は極めて少なく、前述したように目黒通りに夜通し駐車している車など
皆無の状況でした。
それが自動車も滅多に走っていない早朝の広い目黒通りに、偶然にもたった1台の車
が駐車していたのです。
衝突現場から遥か先の、このたった1台の自動車のボンネットの上に命中し、これが
クッションとなって道路に落ちたのです。
B 丁度その時、宿直明けの消防署員が激しい物音を聞きつけ、消防署のシャッター
を上げた目の先に、私が倒れているのを発見。
何と、車は消防署の真ん前に駐車していたのです。そこで署員は急いで私を救急車に
搬送し、出動したとのこと。
その後は、先の救急車内の状況に続くのです。
(後日談ですが、車体が陥没した駐車の持ち主が、警察に損害賠償を請求。しかし、
「路上駐車、それも消防署などの救急車両の出入り口前の駐車は、違法駐車である」
と叱責され、却下されたとのこと)

今年の1月15日付のエッセイ「年初に思う」で、「大宇宙というか、神と言うか。そ
れよりサムシング・グレートと呼んだ方が適切な存在による、何か不思議な計らいと
いうものが、私はこの世には有るような気がする」と述べました。
今回述べている出来事も、私にそう思わせる重い体験の一つなのです。
前回のエッセイでは、作家・井上靖の著書「花壇」(角川文庫・昭和55年発行)を取
り上げ、主人公がイランで交通事故に遭い、九死に一生を得た話に触れました。
病院のベッドで目が覚めた主人公は、医師からこう言葉をかけられました。
「あなたは、自動車が転落してゆく途中で、自動車の中から車外へ放り出されたんで
す。
神さまでなくて、あなたをそのように取り扱うことはできません。あなたは崖の途中
の台地の上に、しかもきちんと仰向けに寝かされていたんです」
「今のところ体のどの部分にも、骨折一つありません。打撲傷が何日か、あなたをこ
の病院に留めておくことでしょうが、ただそれだけです。では、神に感謝しておやす
みなさい」

私はこの断章を読み、粛然とした気持になりました。
今から55年前の13歳の春。
あの時、私は九死に一生を得て、今もこの地球上に、この日本に、色々な友人や知人
や家族や親族や地域の人々の中で、まぎれもなく生きている。生かされている!
そのことに深く思いを致すと、今更ながら、身体の奥の方から熱いものがこみ上げて
くるのです。
そして大空を仰ぎながら、しみじみ「ありがたい・・・」と呟くのです。

それでは良い週末を。