2015年3月11日の夕陽

雲一つ浮かんでいない西の空。
自由無碍に光を放散し続ける、太陽。
その眩ゆさに目を細めると、太陽の光冠が水色の大空を
背に、ひたすらに燃え揺らめいているのが見て取れます。
その遥か上空に白いすじ雲がスイッとはね、あとは何も遮ることのない大空が広がる
ばかり。
時折、この2階の南西の角部屋(自室)の雨戸を、カタカタと鳴らして冷たい風が吹き
抜けていきます。
今の時間は、2015年3月11日午後5時10分。
あれから4年の歳月が経過。
そう、2011年3月11日午後2時46分に発生した「東日本大震災」
から。

私はあの日、乃木坂にあるマンションの3階の事務所で、震度5強の激しい揺れに見舞
われました。本震とその数分後の強い余震に身体が揺すぶられ、ラックから落下する
メダカの水槽やテレビ、転倒する本箱などを茫然と見つめていました。
ようやく揺れも収まり、無意識のまま散乱物を片付けていたのですが、ようやく「何
をしているのだ。早くここを出ないと帰宅出来なくなる」と気づき、午後3時40分頃に
事務所を出て、帰宅の路に。
公共交通は全てストップ。
青山通りなどの幹線道路は、車の洪水でマヒ状態。
舗道は、自宅や、帰宅困難者の避難所に向う勤労者の行列が延延と続いていました。
私もその行列の流れに入り、黙々と歩き続けたのです。
それから50分後の午後4時半頃、渋谷駅到着。
バスターミナルも何本もの歩道橋の上も、人々でごった返していました。
そして、午後5時10分頃、池尻大橋に到着。
丁度、4年前の今の時間です。
革靴の足裏と両膝が少し痛んできたので、近くの喫茶店で小休止。
ところがほどなくして、大きな余震があり、店内は騒然と。そこで私は退出。
先を急いだのですが、行けども行けども人の波。
上馬の自宅に到着したのは、午後6時20分頃。
やれやれと安堵したのですが、私の歩行時間は非常に恵まれたほう。
歩きづめに歩き、真夜中過ぎに帰宅した人が、少なくなかったのです。

あの日、あの時の西空は真っ黒な雲に覆われ、時々雲の隙間から射す陽光が不気味に
見えたことと、薄暗くて奇妙なほど静まり返った街の光景だったことを、今でもはっ
きりと思い出します。
特に、冷たい強風が吹き荒れていて(舗道の立て看板や店先の置物が幾つも倒されて
いた)気味が悪い天気でした。
帰宅後、殆ど無傷に終わった東京の状況を知って驚くとともに、東北の凄惨な被害状
況を知るにつけ愕然とし、眠れぬまま朝を迎えました。

あれから4年。
多くの犠牲者やそのご遺族、今だ避難生活を余儀なくされている多くの被災者の方々
を思うと、我が国の政治の最重要課題は、何が何でも「被災地の復興を迅速に促進す
る」こと以外、あり得ないと思います。
まだ4年。
アベノミクスだオリンピックだと喧伝し、「絆」の言葉を乱発するのは空疎。

今日の美しい夕陽を眺めていると、この間のいろいろな事が思い浮かんできます。
そしてしみじみと、今日までの無事に感謝の念が湧いてくるのです。
前回のエッセイでふれたことと同様、御先祖様などの計らいがあるのでしょう。

「♪おやをおもわば ゆうひをおがめ おやはゆうひの まんなかに」(五木寛之著
『親鸞』から)

今月末に、亡母の5年祭を行います。
夕陽の様に優しくて情熱的だった母。
これからもじっと天空から見守ってくれるように、「晴れた日には、西の空を眺めよ
う」と心に誓った、2015年3月11日なのです。

それでは良い週末を。