小さな庭の隅に植わった沈丁花の花が、今を盛りに咲いています。
この小さな花弁から、密やかに漂ってくる甘酸っぱい芳香に、本格的な春の訪れと共
に、切なくなるような胸の疼きを感じます。
それは3月が、卒業、移転、異動、退職など、別れの季節だから。
今までに数多く、別れの感傷に満ちた3月を過してきました。
そして、今年は特に、ブルートレイン(夜行寝台特急)が全て廃止された寂りょう感
からか、夜行列車に乗って仲間と別れた日のことが、何度も懐かしく思い浮かんでく
るのです。
それは1966年(昭和41年)3月の、ある夜。
私は、奈良県にある私立天理高校を2月末に卒業。
いよいよ、3年間の高校生活を送った青春の街・天理と、多くの仲間たちと別れ、帰京
の途につく時が来たのです。
JR(旧・国鉄)天理駅から奈良駅に出て、そこから急行「大和(やまと)」に乗車す
ると、翌日の明け方に東京駅に到着。
この年の春は、東海道新幹線が開通して1年半が経過していましたが、まだまだ新幹
線は高嶺の花、贅沢な乗り物。
帰京する際は、昼の東海道線の列車や運賃の安い夜行列車に乗っていました。私は天
理駅前の広場で、親友や部活(私は地歴部(地理・歴史・考古学)の部長でした)の
後輩たちに囲まれ、元気に談笑していました。
そして、いよいよ別れの時は来て、皆に手を振りながら改札口から消えたのです。
「やはり来なかった」という微かな失望感と、「それで良かった」という吹っ切れた
気分を抱きながら。
午後10時(もしくは半?)に急行・大和は奈良駅を発車。
当時の急行・大和は、大阪の天王子駅から東京駅までの区間を運行していました。
奈良駅からは、路線も名古屋駅までの関西本線と、東京駅までの東海道線にまたがり、
蒸気機関車の車両は今の寝台特急と大違いで、私が乗車したのは固い木製の二人掛け
のシートが向いあったもので、寝台車ではありません。
私は、ゴトゴトと重たく走る列車の揺れに身をまかせながら、窓外に流れる夜景をぼ
んやり眺めていました。
私のシートの隣部分に客は無く、向いの2人掛けの座席には、通路側に私より幾つか
年上とおぼしき女性が、静かに本を読んで座っていました。
私は、3年間の楽しかった高校生活の様々な想い出も、これからの新たな東京での生活
のことも、何も考えることはなく、時折、窓外の漆黒の闇の中を、蛍の光の様に流れ
去って行く民家の灯りを、虚ろな目で眺めていたのです。
「やはり、Aは見送りに来なかったか・・・」
Aとは、卒業する半年前から交換日記を始めた、1年生の女子生徒。
色白の顔に黒いショートヘアが似合う、快活な女子寮生でした。
ある日、「私のお兄さんになってください」という申し出を、気軽に受けて始まった
交換日記。
しかし、卒業の日が近づくにつれ、お互いの日記には熱い感情が滲み出るようなり、
やがて男女交際禁止という校則を破り、密かに青春映画の主人公になったような気分
で、街外れの古道を歩いたり、奈良公園などに出かけたりして遊んでいたのです。
そして、私が東京に発つ前の日、最後の日記を交換して別れました。
「私は、明日の見送りには行けません。余りにも悲しくて。きっと我慢できなくなる
からです。今度戻ってこられる時、是非ご連絡ください。2年生になって少しは成長
した私を、優しく見つめてください。きっと、きっとですよ・・・」
彼女の日記には、そんな言葉が記されていました。
列車は、時折悲しいほどに暗い汽笛を鳴らしながら走り続け、車内のまばらな乗客は
誰もが背もたれにもたれながら目を閉じているせいか、人の話し声は無く、ゴトゴト
と虚ろな車両の音が響くだけでした。
時刻が零時を過ぎても、私は眠る気はなく、窓外の漆黒の闇をいつまでも眺め続けて
いました。
すると突然、胸の奥底からわけもなく熱い感情がこみ上げてきたのです。
私は、思わず目頭を押さえ、こらえようもなく嗚咽を洩らしていました。
理由も無い悲しさに襲われたのです。
Aのことでもなく、また具体的な事柄でもなく、ただただ無性に寂しかったのです。
それが本当の理由だったと、あとで振り返って思いました。
私が窓のガラスに額をつけ、肩を震わせながら忍び泣いているのを見ていた、前の座
席の女性が「どうされたの?」と、小さく声をかけてくれました。
私は気恥ずかしくなり、慌ててハンカチを取り出して涙を拭い、深呼吸を一つしてか
ら彼女の顔に視線を合わせました。
当時、若手女優で活躍中の「芦川いずみ」にどこか似た、身ぎれいな清楚な顔立ちの
方でした。
私は、お姉さんに甘えるような心境になって、先ほど、高校時代の仲間と別れてきた
こと、これから東京に帰り、新たな生活をスタートさせること、そしてAのことを話し
ました。
彼女は頷きながら、親身になって私の話を聞き、控え目に適切な助言や感想を述べて、
私を終始励ましてくれました。
それから色々な話を交わし、気がつくと、いつしか車窓に朝日が射しこんでくる時間
になっていたのです。
東京駅で別れ際、すらりとしたワンピースにスプリングコートを羽織った彼女は、
「頑張ってね!これからよね!」と微笑むと、ホームの先に消えて行きました。
私は会釈して手を振り続けました。
一睡もしていないのに、何か新しい力が漲ってきたような清々しい気分で、駅の階段
を一気に駈け下りたのです。
あの夜行列車の日から、今年で50年。
あの夜の事は、今でも鮮やかに、若干の羞恥心を持って懐かしく想い出されます。
それは18歳の私にとって、まぎれもない新たな人生への出発(たびだち)だった、と
思うからです。
〈ちなみに、急行・大和は1968年に廃止。
私は1967年の夏に、上野駅発・特急寝台「はくつる」で北海道へ。青森まで「はくつ
る」、函館まで連絡船、札幌まで室蘭本線。それから、旭川、網走、オホーツク、美
幌峠、摩周湖等々を周遊)。
1969年の春に、寝台特急「瀬戸」で四国へ。宇野まで「瀬戸」、高松まで連絡船、松
山まで予讃線、それからバスや鉄道で高知、琴平、徳島などを周遊)〉
2015年の春。
ブルートレインも無くなり、最早、夜行列車の旅に出ることは、二度とないでしょう。
そして様々な事象から「時代は確実に変わった」と痛感しています。
最早、あの時代は二度と戻らない・・・。
でも、今の時代を希望を捨てずに生き抜いていく、そんな権利と義務が私にはあるよ
うな気がしているのです。
「頑張ってね!これからよね!」
彼女の50年前の励ましの声は、まだ忘れてはいません。
それでは良い週末を。