今日(4月2日)の東京は、雲ひとつない紺碧の空と暖かな気候に恵まれています。
今週の前半に満開を迎えた桜は、今日も街のあちこちで爛漫とし、微かな風に揺られ
て、惜しみなく花びらを舞い散らしています。
そのあでやかな狂い咲きにも似た美しさに、思わずため息が出ます。
でも、いよいよ収束宣言。
「さあ、これで、今年の桜は終わり。もう十分に堪能した!」
いつまでも桜を追い続けることはやめ、ここで未練を絶つように自分に言い聞かせる
のです。
青山墓地の桜、六本木ミッドタウン・乃木神社の桜、目黒川の桜、駒沢オリンピック
公園の桜、近くの地区会館の桜、神社境内の桜、近隣のお屋敷の庭の桜、、、。
どれも素晴らしい風情をたたえて、十分に満足させてくれました。
でも私は、何でも徹底的にやらないと気が済まない性格なので、今日の様な花見日和
だと、やたらにそわそわして落ち着かなくなります。
「今日もまだ見頃だろうな。新宿公園、飛鳥山、千鳥ヶ淵、隅田川の桜はどうだろう
か、、、」という具合に、切りがなくなるのです。
いっそのこと、昨夜にでも激しい風雨に見舞われて無残に散りつくしてしまったほう
が、さばさばして良かったのに。
そんな不遜な考えも頭によぎるのです(今日、明日の花見を計画している人もいるで
しょうに)。
毎年こうした各地の桜詣でを続けてきましたが、数年前からこのような行動を単なる
欲深な愚行と考えるようになり、「量(場数)より質(一か所の桜花の風情を、深く
時間をかけて愛でる。出来たら桜並木や桜が群舞する濃密な場所一か所と、花見客が
殆どいない静謐な一本桜の場所一か所)への転換」を図っているのです。
それでも前述のように、今年も結構見歩いてしまいました(どこも事務所や自宅の近
辺ですが)。
なかなか性分と言うものはなおらないものです。
それは50年以上にわたる自己の飲酒行動を振り返っても、つくづく、そう思わざるを
得ません。
先週末の土曜日は、恒例のゴルフコンペで茨城へ。
ホールアウト後、クラブハウスで表彰式と打ち上げ。
ビールや焼酎の水割りの美味いこと。
その後は上野までの特急電車の中で、いつものごとくに酒盛り。
さらに上野駅に到着後、駅中の寿司屋で一杯。
翌日の日曜日は、母の5年祭(仏教では7回忌みたいなもの)を、多摩プラーザ(駅前
の桜並木も満開でした)の兄の家で執り行い、参列した兄弟家族らと昼前から夕方ま
で直会(なおらい。神酒をおろしていただく酒宴)。
私は、神酒どころか、女性陣に何度も日本酒の熱燗を注文して飲み続け、帰路の車中
ではフラフラ、うつらうつらと。夕食はパスして早めに床に。
2日前の火曜日の夕方は、二子玉川近くの蕎麦屋で友人と生ビールと熱燗をだらだら
と酌み交わしていたのです。
しかし、こうした粘着的な行為の反動は、やがて現れるもの。
昨日(水曜日)は朝から頭が重く、下痢気味で気分が悪く、口にしたのはバナナ1本
と、おにぎり1つと白湯だけという、体たらく。
土曜、日曜の疲れは、月曜日ではまだ潜在化しているもの。
年をとると反応が遅くなり、筋肉痛と一緒で、内臓や神経の疲れも翌日にはすぐに出
ず、翌々日頃に出てくるのでしょう。
その身体の疲労が顕在化してくる火曜日に、調子良く酒杯を酌み交わしたのです。
昨日は、ゴルフの筋肉痛が左片腰に、暴飲暴食が腹にきて、まさに「片腹痛い」1日に。
因果応報、後悔先に立たず。
今年の東京の桜は、あと2、3日でしょうか。
未練が残ります。
でも何と言われても、もう今シーズンの花見(酒)は無しに。
「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」
こう呟きながら、西日に美しく映える桜を、ガラス窓を開けてしみじみと眺めている
のです。
それでは良い週末を。