今回で2回目です。
何がか?
それは、今年2月26日付のエッセイ「良い週末を・ありがたいと呟くこと(1)」で、
作家・井上靖氏の小説「花壇」から、文章の一部を引用してエッセイを展開しました
が、今回もその例にならうからです。
井上靖氏の現代小説は、今まで本屋(古本屋を含む)とネット販売で可能な限り探索
し、手に入る20数冊の書籍を全て読了しました。
最後の1冊は「城砦」。
昭和39年5月に毎日新聞社から出版されています。
この本は、ネットのアマゾン通販で入手。
本の価格161円、郵送・梱包料257円、合計418円。
A4の半分ほどのサイズの単行本ですが、表紙に黄ばみがある程度で、427ページに及ぶ
各頁の紙質はきれいに保たれています。
しかし、9ポイントほどの(文庫本の活字より小さい)小さな活字が1頁に2段にわたっ
て、びっしり詰まっているので、ものすごい分量。
今回は、その「城砦」からの引用です。
主人公は、自分が手塩にかけて育て上げた大会社の社長・桂。
その経済界でも著名な桂正伸が60目前になり、突然に社長を辞職。
誰もが桂の退任理由がわからず、半信半疑。その退任まもない桂を励ますパーテイが、
仲間の財界人らの発起で開催されたシーンから、物語は始まります。
挨拶に立つVIPらは「政界に出るのか」「いや組合対策で嫌気がさしたからか」「外国
資本への転身が約束されているのか」「本人は好きな釣り三昧の生活に入る等と言っ
ているが、いずれにしろ、桂のことだから、また仕事の虫がむずむずし始めて復帰す
るだろう」
などと、様々な憶測を交えて愉快なスピーチを行うのです。
しかし、誰にも語らない本人の本意は、次のごとく。
「ふいに世の中の表面から、もう少し静かな境遇に自分の身を移すことを思い立った。
思い立ったらそれをすぐに実行したまでだ。
それを我がまままというほかは、ないかも知れぬ。
しかし、我がままを通すのは血だ。父親も、伯父も、それぞれ我がままな生涯を送っ
た。
やりたいことをやり、生きたいように生きて死んだ・・」と。
その桂が、ある日、上京した高校時代の老恩師から、失恋の相手を忘れられずに苦悩
している孫を指導するよう依頼され、その青年と会って色々と議論します。
愛情至上主義の青年に対し、桂は「愛情というものは、はなはだ当てにならぬものだ」
と、冷厳に諭します。
今回のエッセイの肝。その会話の中の次の部分に、それがあるのです。
「君は、人生をどんなに思っている?」
「僕たちは、、、」
言いかけて、後は黙った。
青年は何か考えている風だった。桂は、青年の口から出るあとの言葉を待っていたが、
「いま、僕たちはと言ったね。そういう言い方は、あなた方の世代を代表するみたい
に聞こえる」
「そうです。僕一人の考えですが、同じ世代のみんなの考えでもあると思います。
それで、僕たちという言い方をしたんですが、僕たちは、桂さんのおっしゃるように、
そんなに人生というものを信用してはいないんです。愛情はいつ変わるかもしれない。
その点、甚だ当てにならぬものだとおっしゃいましたが、しかし、そういう言い方を
すれば、人生と云うものの方がもっと当てにならぬと思います。
世界に大きな戦争が起これば、それで何もかもおしまいです。
戦争はいつ起こるかもしれません。戦争は絶対起こらぬという保証はありません。
戦争が起こったら大変なことになる。だから、絶対に戦争を起こしてはいけない。
新聞でも雑誌でも、こういう論説ばかりです。
起こらないとは言わない。ただ、起こしてはいけないと言っているだけです。
そんなことは当たり前のことで、起こしてはならないと幾ら力んでみたところで、起
こる時には起こります。
一度起こってしまえば、それで万事終わりです。
いつ、僕たちの人生は終わるかわかりません。
祖父など、もう自分の一生を十分生きてしまって、とうにもとをとってしまっている
から、勝手なことを言いますが、僕たちはまだ半分も生きていません」青年は言った。
「祖父など、もう70年も生きてしまっています。
とうに、もとはとって、今はおまけの部分を生きています。だから、色々勝手なこと
が言えるんだと思います。
僕たちは、折角生まれて来たのだから、なるべく人間の寿命だけは生きたいと思いま
す。しかし、そのことは甚だ当てになりません。どうなるか、全くのところわかった
ものじゃありません。
戦争というものが切実なのは若い者たちで、祖父たちには、多少対岸の火事みたいな
ところがあると思うんです。おまけを生きている人のゆとりがある」
青年は言った。
おまけという言い方をすれば、自分もどうやら現在はおまけの部分を生きていること
になる、と桂は思った。本当は、祖父や桂さんなどは、という言い方をしたいのであ
ろうと思った。
以上です。
この小説が発刊されたのは、昭和39年10月に開催された東京オリンピックの時代。
私が高校2年の頃。
私は、はっと思いました。
いつの時代も、若者は今を生きることに悩み、あえぎながら、心の底に大人たちが気
付かない真剣で激しい炎を抱いているのだ、と。
最近、「安保法案」に反対する若者たちの静かな行動が、マスコミなどから伝わって
きます。
既成の集団や原理的な思想に束縛されない、ひ弱で自由な一人一人の、名もなき若き
人間。
その彼ら彼女らが、いま緩やかながらも一つの風となり、静かで大きな流れを作り始
めているような予感がしています。
対岸の火事、オマケの部分を生きる大人のたわごとになりますが、「風が風を呼び、
流れ果てることなく!」と、ひたすらに祈りたい今年の夏です。
それでは良い週末を、良い夏の日々をお過ごしください。
(このエッセイ配信は8月末まで休みます)