普通の人

私は、普通の人が好きです。
それも味わいのある普通の人。

例えば、私の事務所が入っている14階建てのマンションに働く人。
受付の75歳ほどの小太りしたおじさん(管理主任)と、やや若い女性。毎朝受付前を
通る時、「おはようございます」とニッコリ笑って迎えてくれる、気持に陰ひなた
が表れない、平らな人。
1階裏庭の分別ごみ置き場で、朝から午後3時頃まで膨大な廃棄物の袋や、資源ごみ
や缶・壜を、気難しそうな顔をして処理している60代後半とおぼしきおじさん。私が
「こんにちは」と声を掛けると、作業しながら「ウッ!」と一言発するだけの人。私
が入居してこのかた1年半、廊下ですれ違ってもこの「ウッ!」の発声しか聞いたこ
とがない寡黙の人。
そして、14階の各フロアやフロントやマンション周囲の舗道、それにトイレなどを丁
寧に根気よく掃除して回っている70歳代前半とおぼしきAさん。
それに60代とおぼしきおばさん。
二人とも、濃紺の作業着で身を包み、いつも箒とチリ取りと雑巾を携えて動き回って
います。
私は入居した時から、このAさんが気になっていました。
Aさんは、清掃員の服装に身を固めていますが、その風貌が醸し出す雰囲気には独特
の知性と品格があるからです。
すらりとした高めの背丈。銀髪が混じった豊かな頭髪と、端正な目鼻立ち。
少し前まで一流大手企業の役員か部長職、あるいは大学の教授か准教授にいたのかも
しれないと、推察しています。
すれ違う時は、お互いに軽く会釈するだけでした。

それが、ある日。
私が意識過剰なのですが、エレベーターや廊下や玄関では、常に入居者に気配りし、
遠慮がちに一歩退いた謙譲さをみせているAさんが、ある日の昼休みに、若いサラリ
ーマンやOLが晴れやかな声を上げて行きかっている舗道の脇で、黙々と掃除をしてい
る場面に出くわしたのです。
私は瞬間、「顔を合わせたくないな」と思い、素知らぬ顔でそっと通り抜けようとし
ました。
すると、Aさんのほうから「これからお昼ですか」と声を掛けてくれたのです。
私は「ええ。ちょっとそこまで」と小さく微笑んで通り過ぎて行きました。
そしてすぐに、何だか自分の考えていたことは卑屈でつまらないことだ、と恥ずかし
くなったのです。
それは青山近辺の企業で働く、さも高給取りらしい若者や、大きな組織のお偉いさん
風の人々が、洒落た服装をして行きかっている中、掃除夫として道端のゴミ作業をし
ている自分の姿を、誰か知っている人に見られたら、少しバツが悪いのではないか。
今から振り返ると、そんな実に最低な思惑が私の脳裏をよぎったのだと思います。

職業に貴賎はない。誰でもが人生の華やかなステージに立たとしても、いつかは誰で
もがそうした場を降りる宿命にあるのが人生。どんな権勢を欲しいままにした者でも、
いつかは病気になって死ぬ。
死んだら無。
だから若い時も、荘年の時も、高齢になった時も、常に一貫して自分らしく爽やかに
生き抜くことが大切だ。
そうできる人は魅力的で幸せ。
常々(つねづね)そう願ってきたのです。
幾つになっても物事を他人と自分との比較で、「俺のほうが出世した。俺のほうが上
だ。
俺のほうが所得が多い。私のほうが幸福だ。私が勝った」などとしか考えられない人
間は、傍から見ていて実につまらない、魅力のない人ばかり。
人間としての味わいが無い、付き合えない人。
日頃からそう強く思っていた自分が、なぜか現在のAさんの境遇を気の毒なものとし
てきめつけていたようです。
「何を、上から目線で勝手に同情しているのか?それは傲慢な考え方だろう?!」と
自省。
全く恥ずかしい、愚かなことです。

今日の午後、事務所を出るとまだ小雨が降っていました。
私は青山1丁目の駅に向うため、マンションの隣の「ホンダ」本社側の道を歩いて行
くと、
ばったりAさんに出会いました。
Aさんはマンション側から横断歩道を渡ったホンダ側の舗道を清掃していたのです。
私は「あれ?こちら側もやるんですか?」
すると「いや、本来ならマンションの側までです。でも横断歩道からホンダ側のこの
あたりまで、ゴミが流れますんでね。ついでです」と、手を休め、背中を伸ばして
微笑みました。
私は、そのAさんの信念に満ちた無理のない明るい言葉の響きが胸に沁み、「いやあ、
ご苦労様です」と会釈してその場を去りました。

何故か具体的にはわからないけど、「いいなあ・・いいよな」と呟いて、勇んだ足取
りで地下鉄の階段を、一気に降りて行ったのです。

普通の人で、味わいのある人が、私は好きです。

それでは良い週末を。