父は78歳で逝った。
家族の誰もが「お父さんは百歳まで生きる」と確信していたのだが。
折り目正しい生活を繰り返し、自宅からバス停が4つ先の駅までの道のりは必ず歩き、
常にいそいそと骨惜しみすることなく、身体を動かす人だった。
毎朝定時に起床すると、母が入れた煎茶を飲みながら、新聞の隅から隅まで目を通し
て、政治や社会の動向を把握していた。
一日のささやかな楽しみであった晩酌も、必ず1合の酒までで杯を伏せ、一汁一菜の
食事を終えると、静かに手を合わせて感謝の意を表し、そっと席を立つのが習いだっ
た。
終生、酔って乱れた父の姿を一度も見ることがなかった。
そんな節度のある父であったが、宗教家として、あるいは保護司・教誨師として金に
ならない「人助け」に奔走する毎日だったので、6人の子供を抱えた母や私たち子供
は、大変だった。
赤貧生活の中で、母は来訪する信者さんの相談や家事の合間に、アイスクリームのカ
ップづくりなどの内職に打ち込み、私は新聞配達や家の掃除、妹は幼い弟の面倒や炊
事の手伝いに励んでいた。
給食費が払えない月がしばしばあり、そのたびに担任の女先生が授業を終えて廊下に
出た機会をとらえ、小さな声で「来月払います・・・」と詫びる時は、子供心に切な
かった。
しかし、その様なことは些細なものだった。
私が一番辛かったのは、家庭調査票などで父の職業を書かざるを得ない時だった。
例えば社会科の時間、「今日は皆のお父さんの職業について、考えましょう」とのこ
とで、職業分類をすることがあった。
教室の机や椅子を隅に寄せ、黒板の前に集合した生徒一人ひとりが、順番に「会社員」
「公務員」「工場で働く人」「八百屋さん」「大学の先生」などと発言し、先生の指
導で幾つかのグループの輪に加わっていった。
一人また一人と教壇の生徒がいなくなっていき、最後に私一人が残って、下を向いて
いた。
「天理教の布教師・・・」「宗教家・・・」
その言葉が頭の中で反響しているうち、全ての思考が途絶え、衆人環視の中で嘲笑に
耐えている学級委員の自分の惨めな姿だけが、かろうじて想像できた。
しかし、その余りにも長く感じた羞恥の時間は、実は瞬時であった。
女先生がすぐに「東井君はここの自由業のグループね」と、手を引っ張って誘導して
くれた。
いつでも、生徒の心を察してくれる、公平無私の優しい先生だった。
私の長い間の劣等感は、父の職業(?)だった。
しかしそのコンプレックスも、私が社会人となり、家庭を持つようになってから、嘘
のように消滅していった。
なぜなら、父の存在と価値は、職業欄に書く「職種」で決定されるものではなく、そ
の「生き方」で判断されるものだ、と思うようになっていったからだ。
父は病に倒れる少し前、私と茶の間でお茶を飲んでいる時、こんな意味のことを語っ
てくれた。
私を一人前の社会人として認めた上での、最初にして最後の言葉だった。
「他人の心は他人にまかせて、自分が相手を美しく思う。人を尊く思う。
仕事を楽しく思う。どんなものでもおいしく食べる。これが心安らかな人だ。
他人の思惑を気兼ねすることはいらぬ。自分が尊く思えば良い。自らの心を明るく、
内容を豊かにすれば良いのである」
今日から2週間後の10月1日、私は満68歳に。
その翌日の10月2日は、父の祥月命日。
何も語ることはないが、一言だけしみじみと言いたいのです。
「お父さん、ありがとう・・・」
それでは良い週末を。