スポーツの秋です。
各地で、プロからアマチュアに至るまで、様々な競技が開催されています。
プロでは、野球、サッカー、ゴルフ、テニスなどがーズンの佳境に。
バレー、バスケット、水泳、体操、陸上、柔道、レスリングなどのアスリート達は、
来年のブラジルでのオリンピックや5年後の東京オリンピックを見据え、各種大会で
激しくしのぎを削っています。
私は、スポーツはプレイするのも観戦するのも大好き。
しかし、数あるスポーツの中でも、私にとっての至高のスポーツは、やはりラグビー。
「キング オブ スポーツ」。
そして複雑な感情に襲われるのもラグビー。
そう、現在、イギリスで開催中の「第8回ワールドカップ」で、日本が大旋風を起こ
している、あのラグビーなのです。
日本は1次リーグB組で、初戦に優勝候補の南アフリカを倒し、世界中から「奇跡」
と絶賛され、今月3日には日本よりランキング上位のサモアを撃破。
過去7回のW杯において惨敗していたラグビー後進国・日本が、現在2勝1敗で初の決勝
トーナメント進出に望みをつないでいます。
テレビのニュースを観ていると、あの15人のメンバーの一人一人の身体から、青い炎
がメラメラと燃え上がり、そのエネルギーを全て燃え尽きさせてグラウンドに倒れ、
そのまま二度と立ち上がらないのではないか。
そんな不安を思わせる必死のプレイに、心臓が高鳴りました。
この捨て身のプレイ、全身全霊をささげて日本の勝利のために戦う姿に、紛れも無く
「スポーツ精神」の真髄を見た思いがしました。
私が普段観戦している、野球、ゴルフ、サッカー、バレーなどの競技では絶対に感じ
られない選手全体の純真さ。
まさに「one for all, all for one(一人は皆のために、皆は一人のために)」
のSPIRITが終始溢れていました。
私がラグビーを知ったのは、確か中学1年生、昭和35年前後の頃。
父が、来日中のニュージーランドのラグビー代表チーム「オールブラックス」の試合
を観戦するため、秩父宮ラグビー場に連れて行ってくれたのです。
ご存知の方も多いと思いますが、オールブラックスは、今日まで全ての国別代表チー
ムに勝ち越している唯一のチーム。過去7回開催されたW杯で2回優勝、1回準優勝して
いる、現在世界ランク1位の名門チーム。
しかし、当時はラグビーなど全く関心は無く、「オールブラックスは、ユニホームが
黒一色のチーム」としか認識していませんでした。
ルールも何も分からず、スタンドの招待席から広いグラウンドを走り、ボールを蹴り、
大きな身体をぶつけ合うプレイを、ただただぼんやり眺めていたのです。
この様な試合を観戦できたのは、叔父(父の下の弟)が天理高校のラグビー部長やラ
グビー協会に関わっていて(高校の国語教師のかたわら、若い頃から定年まで)その
伝(つて)で、入場券を貰えたからです。
また当時、叔父は奈良県から上京しては、私共が住む目黒の家で(教会を兼ねており
大きかった)日本ラグビー協会の関係者や日本代表選手の何人かを招待し、すき焼き
鍋をつついて談論する機会が多く、客の一人が、裏にオールブラックス全員のサイン
が書かれた大きな集合写真をプレゼントしてくれた記憶もあります。
そうしたことから、何となく「天理高校に入学したら、ラグビー部に入ろうかな」な
どと、漠然と考えることもあったのです。
そして中学3年の時、天理高校が全国高等学校ラグビー大会で優勝し、さらにラグビ
ー部のOBである遠縁のおじさん達に「トモ(私の呼称)は撫で肩で、耳も小さいし
(注・スクラムやタックルなどで怪我をしにくい、ということ)、ラグビーに向いて
いる。
足も速そうだから、ラグビー部に入れ」と、何度もすすめられ、結果、入学した翌日
にクラスの者2人と、ラグビー部員に勧誘されるまま入部してしまったのです。
そして、入部して間もなくまさに「しまった」と後悔するはめに陥ったのです。
ラグビーのルールも技術も知らず、ましてや中学の時に体育系のクラブも経験してい
ない身体がひ弱な少年が、それも特に2年前の春、交通事故で九死に一生を得て生還
したばかりで、まだ身体は丈夫な状態ではなかったにもかかわらず、高校のクラブの
中でも最も過酷なスポーツに足を踏み入れてしまったのです。
それも全国の高校ラグビーの頂点に立つ、最強チームに。
中学まで草野球など一度もやったことがなく、そもそも野球のルールを知らないモヤ
シっ子が、いきなり東海大相模や早稲田実業などの名門野球部に入り、いきなり硬式
ボールを握るような無謀さでした。
授業が終わると、新入部員は素早く練習着に着替え、様々な練習の用意をし、それか
ら信じられないような猛烈な練習に突入します。
片道3キロほどの山道をランニングで往復した後、腕立てや腹筋やスクワットを何十
回かし、50メートルダッシュを際限なく繰り返し、それからレベルごとに別れてボー
ル回しやタックル等の練習・・・・。
時々、大きな階段教室で、下級生は先輩を肩車して下から最上段までを何回か往復。
私は90キロほどの体重の3年生(レギュラー)を肩車し、必死で階段を登り下りする
のですが、よろけるたびに「なにやっとんね。しっかり歩け!」と頭をどつかれまし
た。
そして外が真っ暗になってからが、また大変。
全員校舎地下の部室に入り、それから10数名の1年生(新入部員。ただし殆ど全員が
地元の天理中学や関西の有数なラグビー校で、ラグビー部に在籍していた者)はコン
クリートの床に正座し、主将や先輩の説教をじっと聞くのです。
「練習中、歯を見せていた者がおったな。そんな気持では練習にならん。連帯責任や
ど」と怒鳴られたあと、全員が先輩からビンタを受け、さらに私達一部のヒヨコは、
50回の腕立て伏せを罰としてやらされるのです。
さらにその後。
汚れた楕円形のラグビーボールを、一人1個磨かされます。
これが一大事の日課。
先輩の使い古した臭いストッキングで、ゴシゴシ磨くのですが、濡れて重い革のボー
ル全体がテカテカと輝くまでは、先輩からのOKが出ません。
30分ほど擦り続けても、どこもつるつるとした部分が出てこないので泣きたい気持ち
になっている時、見かねた隣の2個目のボールを磨いている同輩が、「まず1か所だけ、
10円玉の大きさを光らせるんや。
そこからな、徐々に広げていくんやで」と、小さな声で助言を。
確かにこの方法で、まさにようやく光が見えてきたのです。
泥雑巾のように重く疲れた体で、寄宿舎に帰るのは、夜も更けて。
だから、授業中は殆どうつらうつらして半分寝ていました。
こんな日々が夏休みまで続きました。
毎日が地獄です。
私は、普通一般の平凡な世の中とは全く違う世界に放り込まれ、逃げも隠れも出来な
い、目に見えない網の中で生きているような気がしていました。
一緒に入部した体格の良い他の二人は、「退部しようぜ。もうもたん。でも先輩達と
寮が一緒だしな、そんなこと言ったらどつかれるしなあ・・」と、いつも溜め息をつ
いていました。
私はひそかに、夏休みが終わったら退学しようと考えていました。
しかし、これも運命なのでしょう。
二学期が始まってしばらくし、突然、校長から「進学クラスの者は部活を辞め、勉学
に励むこと」という指示が校内に出されたのです
当時の天理高校はマンモス校で、1学年は約800名、十数クラスありました。
でも、柔道・野球・水泳・ラグビーなどのスポーツや、吹奏楽などの文化系クラブの
活躍は全国屈指で名が轟いていましたが、有名大学への進学率が低かったのです。
そこで学年に2クラスほど「進学クラス」と名を打って、精鋭育成を図ることを学校
の運営方針とし始めた年だったのです。
私は担任の先生と部の先生にその旨を伝えられ、しばらくキョトンとしていました。
籠の扉が急に開き、外に向って自由に羽ばたけるといった感じでした。
翌日から世界が大きく変化しました。
私は、先輩をはじめ他の部員には何も言わず、再び部室に入ることはありませんでし
た。
その必要もないし、また理由はどうあれ、途中退部は戦線を離脱・逃亡する卑怯な行
為をするようで、内心後ろめたかったのです。
数日間、先輩に廊下ですれ違うたびに、何か言いたそうな顔を向けられましたが、軽
く会釈して通り過ぎていました。
一度、主将に廊下で会い「自分(お前)、何しとるんや。練習にこんのか」と、ちょ
っと心配そうに尋ねられましたが、「学校の指示で、退部しました」と答えると、
「そうやったな。元気でな」と一言
残して去って行ったのが、今でも記憶に残っています。
その主将は、卒業後早稲田大学に進学し、そこでも主将になり、さらに社会人になっ
てから全日本のメンバーとして活躍していました。
ちょっとどころか、大きなボタンの掛け違いをして始まった、高校生活。
しかし、その辛いラグビー部の時期が終わった後、卒業するまでの学園生活は一生忘
れられない、自由で楽しい充実した日々として、今でも蘇ってくるのです。
2年生の学年末には、学年で一番の成績ということで校長からオルゴール時計を授与
され、授業以外では、生徒会の副会長や文化クラブの部長、体育祭の実行委員長など
の活動で張り切り、家からの仕送りが少ないので、校則に反して密かに小学生の家庭
教師のバイトをして小金を得、良き仲間たちとお好み焼屋に行ったり、寄宿舎の誰か
の部屋に集まっては、夜遅くまで駄弁ったりして日々を謳歌していました。
あれから50年。
この間に、何度も秩父宮ラグビー場に行き、秋の陽射しの中で走り回る選手達を眺め
ながら、過ぎ去った青春時代の喜びと挫折を、懐かしく想い出していたりしました。
そして、「あの時、中学時代のラグビー経験があったら、きっと積極的にラグビーに
のめり込み、3年間ラグビーを続けただろう。あの地獄のように感じた練習も、もっ
と捉え方が変わっていただろう。
日本一になるチームの練習としては、当たり前のレベルを先輩達は我々に叩きこんだ
だけだったのだろう。
でも、俺の運命はラグビーをやることではなかったのだ。
観客としてラグビーを応援し、そのスポーツ精神を掴むことが、俺の運命だったの
だ。
そして、その精神は感得していると断言できる」と思っているのです。
来週末は、卒業して50年目の天理高校のクラス会に参加してきます。
「一人は皆のために、皆は一人のために」の精神を胸に。
それでは良い週末を。