戦後の歴代総理は、一流大学、閨閥、高級官僚の出身者が殆ど。
彼らが我が国のエスタブリッシュメント(権力機構・主流派)を形成し、日本の政治
の最高責任者として国家権力をふるってきた。
しかし、その戦後の政治史における前例を打破し、国家権力の頂点に登りつめた一人
の政治家がいた。
それが「今太閤・コンピューター付ブルトーザー」と呼ばれた、田中角栄。
彼は1972年(昭和47年)に総理大臣に就任した。
彼の学歴は、尋常高等小学校(現在の中学校)卒業。
学歴も閨閥も何もなく、まさに一介の土建屋から政治家を志し、その類まれな実行力
と人心掌握術で国家権力の頂点に立った「庶民宰相」として、多くの国民の喝采を浴
びたのである。
首相となった彼は「日本列島改造論」(注・日本列島の主要地域を新幹線や高速道路
網で結び、工業地帯を再配置することで、過疎と過密の問題を同時に解決するという
政策)の実行を内外に公約。
高度経済成長に取り残された地方の人々を始め、様々な国民がこの計画に期待を寄せ
た。
振り返ると、田中首相の真の栄華と政治家の初心・プライドが残っていたのは、総理
就任して間もない1972年の9月に電光石火のごとく中国を訪問し、「日中国交正常化」
を実現させたことを含め、この時期までだったのかもしれない。
まもなく地価の高騰、資材価格の上昇で激しいインフレが日本列島を襲い、さらに
「石油ショック」(注・アラブ石油国の原油値上げ、生産削減)により、1974年の前年
同月比の消費者物価指数は26%まで上昇。
世間は「狂乱物価」でパニックになり、政権へ激しい不満をぶつけるようになった。
このため、田中内閣は公共事業費の削減などの「総需要抑制策」を決行。
田中首相のコンピューター付きブルトーザーも大きく迷走。
景気は大きく後退していった。
さらに1974年11月、総合雑誌「文芸春秋」に掲載されたルポライター・立花隆氏の
「田中角栄研究」と題した記事などで、田中流金権政治の実態が社会に暴露され、
田中内閣への国民の支持は急激に低下、その2カ月後、田中内閣は総辞職した。
その後、1976年には「ロッキード事件」(アメリカの航空会社・ロッキードから、日
本での航空機受注を進めるための工作資金として、巨額の賄賂が裏社会のボス、日本
の商社・航空会社及び政府要人に流れ、田中首相もその金を受け取ったという事件)
が勃発。
田中前首相は5億円の受託収賄容疑で逮捕され、1987年、東京高裁で懲役4年の判決が
下されたが、すぐに最高裁に上告。
だが裁判中の1985年、最盛期に140名を擁した「田中軍団」も、竹下元首相を中心と
した子飼いの連中が政治集団「創政会」を創設。大挙して田中角栄の元から去るとい
う、まさに政界ならではの魑魅魍魎の出来事が起こった。
これに激しいショックを受けた田中氏は、毎日、ウイスキーを浴びるように飲み、
1987年の正月に脳梗塞で倒れ、1993年(平成5年)に死去した(被告の死により、控
訴は棄却)。
激情の中に冷静な判断をため、ここぞという時は一気呵成に実行する天与の才能を有
し、一時代の一時期を傲然として生き抜いた希有な庶民宰相。
今でも語り継がれる田中語録(「田中角栄という生き方・別冊宝島」から)。
「結論を初めに言え。便せん1枚に要点を3つまでだ。この世に3つでまとめきれな
い大事は無い」
「本当の雄弁は、相手の心をとらえる。聞く人が、今日は良かったなと思うような話
をする。それが本当の雄弁というものだ」
「(1962年・大蔵大臣就任時の省内挨拶で)できることはやる。できないことはやら
ない。
しかし、すべての責任はこのワシが負う。以上!」
「人にカネを渡す時は、頭を下げて渡せ。くれてやるといった態度が、少しでもあれ
ば、そのカネは死にガネになる」
元・民主党最高顧問であり、創政会発起人の一人だった渡部恒三氏は。
「(田中元首相は)最後まであの雪深い新潟の田舎の人達の生活を、豊かにさせてあ
げたいと思っていた。心から尊敬できる政治家だった」と述懐。
だが、晩年は忸怩たる辛い日々を送らざるを得なかったのは、想像に難くない。
「昭・田中角栄と生きた女」(佐藤あつ子著・講談社)という本に、切ないくだりが
ある。
「オヤジが倒れたのは、昭和60年2月27日だった。
その1週間前の母(注・越山会の女王と呼ばれた、田中角栄氏の愛人)の日記を見る
と、まるで予感していたかのような記述がある。
(昭和60年2月20日。雨。このごろ田中の言動がおかしい。朝からウイスキーを飲
み、事務所に来た時には、もう千鳥足で、目も真っ赤に血走っている。
いくら私が止めても、ウイスキーのがぶ飲みをやめようとはしない。
口論の末、最後は自分でボトルから注ぎ、濃い水割を作る始末。
それが毎日のようにではなく、文字通り毎日続いている)以下略」
田中角栄の政治手法に抵抗し続けた、石原慎太郎氏の「わが人生の時の時」(新潮文
庫)では、過去における様々な人生の分岐点での想い出が述べられているが(「歴史
の十字路に立って」(PHP研究所)など、氏の他の本でも同様だが)、特に田中角栄に
対する思い入れが強いと感じられる。
愛憎が表裏一体の感情をお持ちなのだろう。
ここでは青嵐会という「反田中グループ」を結成した当時の出来事が、興味深く語ら
れている。
その一節。
石原氏の強い勧めで青嵐会の一員である、中川一郎氏が自民党総裁選に出馬した当時
のやり取り。
酒を飲みながら、中川氏が石原氏に呟いた言葉。
「俺はあんたとつき合うようになってから、あんたにそそのかされるままやってきた
けど、ずいぶん友達をなくしちまったなあ」とぼやいたものだった。
「誰のことよ」ととがめると、
「角さんだってそうだ。あんたが金権反対金権反対って言うから、俺もそうだそうだ
と言ったが、俺は実は角さんが好きなんだよなあ・・・」
話題はとんで。
先日見たDVD「LINK」。
政治の世界の、というより国家権力とそれを取り巻く官・財界の癒着・腐敗の一端を
暴きながら、人と人との結びつきLINKの大切さこそが社会、世界を変える可能性があ
ると、鋭く語っている
社会派ドラマ(主演・大森南朋)。
田中角栄のように「国民の為になる政策の断行。政治家や一部の既得権益者だけが良
いおもいをし、毎日、必死で生きている庶民、弱者が救われない、思いやりのない社
会。それを変えるのが政治家の使命だ」との信念から、民自党(与党)の総裁選に立
候補し、見事当選したやり手の元幹事長。
次は最終目標の総理大臣の座。
だが、総理の座を得るためには、票が必要。そのためには工作資金は必要悪」と考え、
金融機関からの不正融資(裏金)を授受し続け、結果、検察の特捜部に逮捕されるこ
とに。
総選挙の真っただ中の遊説先で、逮捕・連行される間際、彼は覚悟を決めて依願す
る。
「最後の街頭演説をさせてください。それが終わったら同行します」と頭を下げ、群
衆に向って選挙カーの上から演説を始める。
「政治を儲かる仕事だと勘違いした馬鹿な議員どもが、皆様方の貴重な時間と税金を、
毎日どんどん無駄に使っております。
彼らを政治の世界から叩きださない限り、いくら頑張っても、この国を変えることは
できません。だからですね、聞いてください!
私は決めたんです。お札で相手の横っつらをひっぱたいても、まず、まっすぐ権力を
手にしてやろうと。
私は間もなく逮捕されます。
ただね、私が再び世間に出てきた時、この国が変わっていなかったら、私はね、もう
一度同じことをやるでしょう。
こんな私では駄目なんですよ、皆さん。
(周囲にいる党内の国会議員達を指差しながら)彼らでは駄目なんです。
政治家に任せず、国民の皆さん、皆様方の力と判断で、どうか、どうかどうか、この
国を救ってください。
以上です」
話し終えると、全てを吹っ切るように特捜部の待つ車に歩いて行ったのだった。
田中角栄も、同じような道程を辿ったのだろう(ロッキード事件での有罪・無罪の議
論は、今でも続いているが)。
というより、ドラマの政治家の男こそが、田中角栄の手法を真似たのだろう。
だが、金脈も人脈も途方も無く広かった田中角栄の模倣は、ドラマでも難しい。
しかし、何の志も無く(何の政策も無く)、政治家というカネの入る職業を得て、そ
のおいしくて楽な(普段、何をしているのか。いざという時は役人におんぶに抱っこ
で、自己の信念に基づいた政策力が無くても務まる)職業を、一日でも長く継続する
ことだけが行動の規範となり、ドラマのようにだただ私利私欲に走る「今時」のケチ
な政治家達。
そう思えるサラリーマン政治家たちと比較することは全く不可能だし、角栄氏に対し
て失礼な話。
さて、冗長な文章になりましたが、そろそろやめます。
当初は、ウイスキーに関する話を述べようと考えていたのですが、なぜかウイスキー
から田中角栄を連想してしまったのです。
色々な想像を巡らしながら、秋の夜の静けさの中で、歯に沁み入るウイスキーのオン
ザロックを、しみじみと口に含んで寝ることにします。
それでは良い週末を。