フランク永井通り

先週の火曜日(9日)は、第8回びわ湖ホール声楽アンサンブル東京公演が、上野の東
京文化会館で開催され、私も久し振りのコンサートを満喫してきました。
主催は滋賀県立芸術劇場を運営する、公益財団法人びわ湖ホール。
オペラ・バレエ・ダンス・コンサート・演劇・伝統芸能など多彩なジャンルの公演を
行っています。
この夜は「日本合唱の音楽の古典W」と題し、組曲「海の詩」や、宮崎駿アニメ名曲
集「さくらんぼの実る頃」などが、混声合唱、女声合唱で披露されましたが、素晴ら
しいハーモニーとみなぎる情熱に納得。2時間ほどの時間があっという間に過ぎ、凍
てつく夜風にかかわらず、火照る感情をコートに包み込み、帰路に就いたのです。
びわ湖ホールの東京公演を鑑賞できるのは、ホールの常務理事であるK氏のご配慮。
彼が県庁から東京事務所に出向していた時代に知り合い(私の生まれが滋賀県である
こともあり)、仲間同士で集まっては良く飲んで駄弁ったのですが、それ以降続いて
いる付き合いからなのです。
嬉しいご縁であり、私が現在も滋賀県とのつながりを確認できる唯一の糸なのかもし
れません。

戦争中、東京から滋賀の故郷に疎開していた両親と生まれたての兄。そして私が昭和
22年に生まれた2年後の24年、一家4人はようやく落ち着きを取り戻してきた東京に戻
りました。
それから歳月は流れ、小学生の頃に何度か帰省して川遊びなどをした記憶も、いつし
か遠くなり、故郷の親類の人たちとも徐々に疎遠になり、叔父や叔母も私の両親も他
界し、私も本籍地を滋賀県甲賀郡から東京都目黒区に移して今日に至ったのです。

コンサートの翌日。
私はスマホを購入してから、毎日の習慣になった朝の喫茶店での「お気に入り音楽」
を、スマホで楽しんでいました。
クラッシックからジャズ、軽音楽、フオーク、歌謡曲など色々なジャンルの曲を聴き
ながら、20分ほど珈琲タイムを満喫しているのです。
この日は、たまたま往年の流行歌手・フランク永井をタップ(選曲)。
彼のヒットメドレーで、最初に「有楽町で逢いましょう」(昭和32年のヒット曲)が
流れてきました。
甘く切ない低音の魅力。進駐軍のクラブ歌手でならしたモダンな雰囲気。
彼は、日本がようやく戦後の混乱から立ち上がり、国中が自信と生活の安定を回復し
てさらに輝かしい明日に向かって進んでいく、若い息吹に満ちた昭和30年代を象徴す
る一大歌手でした。
それは昭和32年から昭和57年までの26年間、NHK紅白歌合戦に連続出場したことが明
白に立証していました。

しかし。
フランク永井は、私がかって住んでいた家(前述した本籍地・目黒区下目黒)の近く
に、瀟洒な自宅を構えていたのですが、彼の不倫問題が発覚して世間が騒がしくなっ
た昭和60年(1985年)、自宅で自死を図ったのです
。かろうじて一命を取りとめたものの、後遺症を患って歌手への復帰はならず、平成
20年(2008年)、ひっそりと世を去ってしまいました。
フランク永井の歌を口ずさんでいた若かった私は、彼の自殺未遂の報道に触れ「こん
なことがあって良いのか」と大変驚いた記憶があります。痛恨の極みでした。

彼が全盛のころ、私はよく下駄を引っ掛け、近所の洒落た家々を眺めつつ、坂道を下
った突き当たりの彼の家の前を左折し、さらにダラダラ坂を下って目黒不動(龍泉寺)
までの散歩路を楽しんでいたものです。
その途中には、俳優の二谷英明・白川由美夫妻の豪華でモダンな邸宅もあり、ある時
は夫妻の娘と郷ひろみの結婚で周囲が喧騒に包まれたことも何回かありました。
(ちなみに、私の家からフランク永井の家に突き当たる坂道の上まの平坦な住宅地
は、昭和8年まで「目黒競馬場」があったところ。その後、競馬場は閉鎖され、今日
の府中・東京競馬場に引き継がれる。競馬の重賞「目黒記念」は、この競馬場を記念
したもの)。
昔からこの辺には様々な有名人が住んでいましたが、やはりフランク永井の名前が地
元住民を風靡していました。
目黒駅から権之助坂を下り、目黒通りを直進して環状6号線(山手通り)との交差点
(大鳥神社)を越えると、バス停「元競馬場」に至ります。
そこの先のT字路を、左折してからフランク永井の家に突き当たる一直線の道が、通
称「フランク永井通り」と今でも呼ばれています。

(ちなみに目黒通りは、今では別称「アンティーク家具通り」とか「インテリア・ス
トリート」と。
味のある粋な家具を揃えた店が散在していることで有名。現在、朝日新聞に連載中の
小説「春が散る」(作・沢木耕太郎)でも、主人公が食堂の古いテーブルを買うため、
この通りを物色して歩く場面が出てくる)
私は当時、最終バスがなくなると目黒駅から自宅までの15分ほどの道のりを歩いて帰
宅していましたが、時々、タクシーに乗って「フランク永井通りを入って」と伝える
と、まず知らない運転手はいなかったほど。
(ちなみに、フランク永井の家の隣は、私の小学校時代の友人A君の家。敷地内に同
居する祖父は、歌人で国語学者でもある、斯界の泰斗・土岐善麿(ときぜんまろ)氏。
土岐氏は小学校から大学に至る校歌の作詞を多く手掛けてきた作詞家でもあり、勿
論、私の母校・目黒区立不動小学校の校歌もそう。A君の家に遊びに行くと、物静か
な氏に出会うこともあったが、当時はそんな偉い人とは全く知らなかった。
それよりA君は学年で一番背が高く、コンパスが長いので足が速かった。運動会の掉
尾を飾る全校紅白リレーでは、毎年彼と私が競い合うことになって、私も足には自信
があったが、いつも荷が重く緊張した経験が残っている)
(ちなみに、高校の校歌の作曲者は、指揮者で作曲家としても戦後の第一人者だった、
近衛秀麿氏(元首相の近衛文麿は、異母兄)。良い作詞家、作曲家の校歌を歌って来
れたことに、満足)

ちなみにの3連発で話題がそれましたが、フランク永井の歌をスマホで聴いていて、
今更ながらあることに気づきます。
それは、彼の歌には大都会・東京を舞台にした哀愁を帯びた歌が、余りにも多いとい
うこと。
いくらご当地ソングが流行っても、普通は「柳の下に、いつもドジョウはおらぬ」の
例えのように、同様の2曲目、3曲目がヒットする歌手は、皆無。
しかし、フランク永井の場合は。
冒頭の「有楽町・・」「夜霧の第二国道」「東京午前3時」「東京ナイトクラブ」
「西銀座駅前」「羽田発7時50分」など。
これがことごとくヒット。
(ちなみに第二国道とは、国道1号線のうち、品川区西五反田から横浜市神奈川区まで
の間を、通称「第二京浜国道」と呼ぶ。
当時は、車で東京から横浜まで流れるのが、格好良かった。
昭和32年11月発売の「羽田発7時50分」の空の便とは、当時どこ行きの便か?
「♪さよならさよなら、俺をせかせる最終便、ああ羽田発7時50分」と歌詞にあるが。
私は何らかの理由で見送りに来られなくなった恋人をぎりぎりまで待つ、ロンドンへ
でも2年間の海外赴任に発つ前の主人公のやるせない姿を想像するが、どうも同名映
画ではマニラ行きのようで、少しがっかり。
この「7時50分(ヒチジ・・)」を、フランク永井は「シチジ・・」と歌っているの
が興味深い」
火鉢(ヒバチ)をシバチと言うように、「ヒ」を「シ」と発音するのは東京弁の一種
かどうか忘れたが、彼は宮城県出身。
はて?)

それと私は今まで、出張から私的な旅行を含めて47都道府県すべてを訪ね、多いとこ
ろには数十回も行ってきましたが、地方での夜の酒席、ネオン街を渡り遊ぶとき、バ
ーやスナックのカラオケで東京の歌をリクエストされた際は、だいたい「東京ブルー
ス」(西田佐知子)か「東京の灯よいつまでも」(新川二郎)、あるいは「東京の人」
(三浦光一)を歌っていました。
考えると、フランク永井の歌はないのです。
今、つくづくと感じるのは「彼の歌はじっくりと聴きふける歌であり、人前で他人に
聞かせるために歌う歌ではない。
フランク永井だからこその歌ばかりだった」ということです。

かっての故郷・滋賀県のびわ湖ホールのコンサートの話から、現在の本籍地「目黒区
下目黒」のフランク永井通りまで話は流れてしまいました。
どちらも現在住んではいないし、最早、二度と住むこともないでしょう。
それでも、心の底にそっとしまっておきたい、忘れたくない故郷なのです。

それでは良い週末を。