花水木(2) |
前回(4月15日)、「花水木」と題して週末エッセイを書きました。 今回はその続きです。 サクラの花が豪華絢爛に咲き誇り、国民の心を酔わせて乱したひと時が終焉すると、 そっと控えめに咲き始めるハナミズキ(花水木)の花。 そのハナミズキの含羞を帯びた清廉な花が大好きなことを、前回述べました。 好きになったのは20年前、40歳代後半の頃。 それまでは全く眼中になく、どこかの庭先に咲き始めたのを眺めても、恥ずかしい 話、「これはコブシの花か。随分と遅咲きだな」程度の認識。 何の感興も生じませんでした。 ウメ、ジンチョウゲ、ボケ、マンサクなどの早春の花木に続き、コブシの花やモク レンの花が中を継ぎ、その後にサクラそしてハナミズキの花が登場すると、 春も本番。 でも、この一連の変化の中で、どういうわけかハナミズキの印象だけが後年まで薄 かったのです。 きっと前述したように、真打のサクラの影に隠れてしまっていたのでしょう。 それが一変したのは、父の死後、平成4年に兄の家族が目黒の家を引き払い、横浜 の多摩プラーザに居を構えてから。 そこで兄夫婦の家族と母が同居していたのですが、私は母に会いに行くのも親孝行 の一つと考え、年に何回かは手土産を持って兄宅を訪問していました。 そして、新居の居間で庭の低木や草花を見やりながら、歓談のひと時を持っていた のです。 特に母の誕生日である4月29日(当時は天皇誕生日)には、毎年訪問していまし た。 その時期は「たまプラーザ駅」から続く桜並木の桜も殆ど散り、美しい新緑の葉桜 がどこまでも広がっており、爽やかな季節の到来を肌で感じられました。 兄宅の庭には、ツバキやショウブやツツジやマーガレットなどの草花に囲まれて、 そこだけ1本、ハナミズキの木がすらりと空に向かって伸びており、可憐な白い花 と緑の小葉を、初夏の風に涼し気に揺らめかせています。 何にも邪魔されることなく、自由に伸びやかに咲く姿には、まさにハナミズキの 花言葉「私の想いを受けてください」と、含羞を帯びながら囁いているように映り ます。 私は瞬時にして、この花に魅入りました。 この東急不動産が開発した分譲住宅地は、どの家にもハナミズキの木が植えられて いるのが特色。 私はいつしか、母の誕生日に多摩プラーザを訪れることが楽しみとなり、兄の家に 到着するやいなや、すぐに居間のガラス戸を開けて庭に出て、この孤高に立ち咲く ハナミズキを、しばし眺めるのがならいになっていたのです。 ハナミズキを眺めていると、徐々に心が澄み渡り、すがすがしい喜びが身体中に湧 き上がってくるのです。 でも、7年前に母が病に伏すと同時に、ハナミズキの木が弱りはじめ、5年前に母 の死に付き添うように、すっかり枯れてしまいました。 その後、毎月一度は兄宅を訪問することとし、母の霊前に手を合わせているのです が、家に到着すると四季を問わず、無意識に視線が庭先に向いてしまいます。 でも、そこにはハナミズキの姿は、もうありません。 母を呼べど探せど、どこにもいないように。 今年は4月17日の日曜日に訪問してきました。 駅からの幾つもの坂道を上り下りしながらの道すがら、あちこちのハナミズキの花が 目に入り、そのたびに足を止めてはしばし眺めていました。 そして、坂を上り切ってうっすらと浮かんだ額の汗をぬぐった時、どこからか春風に 乗って「日々に感謝して、身体に気を付けて、悔いなく生きるんだよ」という声が、 幻聴のように脳裏に響いてきました。 それは、もしかしたらハナミズキの花言葉の言霊でもあり、天空から見守ってくれて いる母の優しい言葉でもあり、何よりも私が青空に向かって祈る、私の「想い」であ ったのかもしれません。 こうして、69回目の春が穏やかに過ぎていきます。 それでは良い週末を。 |