東井朝仁 随想録
「良い週末を」

追  憶

夢ではない。
喫茶店の片隅で追憶していたのだ。
私は、深い椅子の背もたれから身を起こし、冷めた珈琲を口に運んだ。
そう、いつしか夢かうつつか幻かわからない、まどろみに入っていたのに気が付いた。

厚生省統計調査部(当時は市ヶ谷に庁舎があった)の5階講堂の壇上で、私は会場の
若き職員たちに向かって青年部長として演説をぶっている。厚生省労働組合統計支部
の青年部大会を昼休みに開催しているのだ。
あるいは同様に、真夏の炎天下の庁舎敷地内のグランドで、バレー部の主将として多
くの部員と共に大汗を流し、猛練習に励んでいる。
午後1時にネットを片付け、地下のシャワー室で汗と泥を洗い流してから、そっと職
場に。
おばちゃんたち(注・当時私が20歳前後だったので、10歳以上年上の人たちはみな、
おばちゃんに見えた。30代だったら今ではまだギャルともいえるが?)に挟まれた
席で、半酔しながら単純作業(をしているふり)に没入。
午後4時半。
「お先に」と周囲に声をかけ、意気揚々と退庁。
これから徒歩15分ほど先の戸山町にある早稲田大学第二文学部校舎へ。
大学の夜間学部に通学する職員は、当時、早退が認められていたのだ。
午後5時20分、第1時限目の授業開始。
科目は「日本史概説」。
隣に吉永小百合が座っている。
前から送られてきた出席カードを彼女に渡すとき、チラッと目が合う。
きれいな瞳だ。
ただそれだけ。
2時限目の英語。
週3回あるこの英語の受講生が、A組としてのクラスメイト。
男女半々で合計40名弱。
すでに6大学野球で活躍していた矢沢(のちに中日で首位打者に)が、フオークソ
ング「リムジンガン」をヒットさせた神部(のちに「なごり雪」のイルカの夫に)
が、学生運動の極左・革マル派の活動家として動いていたM(私と主義主張は真逆
だったが、なぜか気が合って友達だった。殆ど出席せず、最後は機動隊突入で大隈
講堂の屋上で逮捕)が、インテリでスマートで卒業後NHKで活躍した柴田が、創
業後の勢いがあった玩具のバンダイに就職した、俳優・竹脇無我に似た顔つきの野
島が。そして一番の親友で、週に4日は大学近くや高田馬場の喫茶店で駄弁ってい
た、福井県庁に就職した横井が、それぞれ真面目に教授の講義を聴いている。
女性陣の殆どは「お嬢様然」としていながら大人の香りを漂わせ、うっとりする横
顔を見せている。
ちょっと前まで、奈良の天理高校で田舎暮らしを謳歌し、まさにレモンの味のよう
な青酸っぱい香りを漂わせた女生徒らと比べたら、次元が全く別になっていること
を痛感。

授業終了は夜の10時過ぎ。
それから毎晩のように、誰か彼かと連れ立って喫茶店で談論風発、山手線の最終間
際の電車に飛び乗るのが常だった。
ある冬の夜、先に述べた横井と、高田馬場まで歩いて大衆酒場「養老乃瀧」で日本
酒を飲んで帰ることに。
しかし道すがら、二人で所持金を確認したら140円ぽっち!
「横井君、持ってないのか?!」「えっ、東井君が持っていると思ったよ・・」
お互いに唖然。
日本酒一本ずつで済ませれば150円でOK。
「あと10円か。よし、駅の付近を探索しよう。どこかに落ちているぞ」
それから20分、二人で血眼になって構内や付近の舗道を這いつくばるように探した
が、無し。
泣く泣く駅でグッバイとなったこともあった。

毎週水曜日の夜は、家庭教師のアルバイト。
カリキュラムで、この日は講義無しにしておいたのだ。
最初の1年は、日本橋の染め物問屋の小学5年生のバカ息子(失礼)。
週一で1時間、国語と算数を。
やる気がなく生意気な口を利くので、時間を決めてドリルをやらせ、その間、こち
らは持参した小説を読んで時間つぶし。
結果、通信簿「1と2が→3と4に」。
親に継続を乞われたが辞退。
2年目に、原宿の邸宅に住む女学館高校2年生に、英語。
上品な母上が、いつも応接間で紅茶とロールケーキでもてなしてくれ、その後、可
愛い贅沢な服を着た娘に英文読解とグラマー(文法)を。
しかし、娘は勉強より雑談が好きで、それも恋愛話が好み。
楽しく容易く過ぎる時間で結構良かったが、だんだんと重荷に。
娘の態度が妙に異性を感じさせ、そのうち母上が娘と共に奈良見学に連れて行って
ほしいとか、ごちゃごちゃした話になり、結局、名残惜しかったが理由をつけて9
か月で辞職。

次の年の春からは、南千住の都営住宅に住む、都立高校の女生徒。
週1回1時間、数学UBを。
紹介してくれたのはクラスメイトの立山。
横浜で亡き親父の跡を継いでクリーニング店を経営。
本来は昼間部に通学するはずだった。
この子は立山の親類。
おとなしい可憐な子だが、聡明。
そのため毎回、こちらのほうが予習を何時間もしなくてはならない羽目に。
何とか1年間やり通し、成績が上がったという電話を受けて安堵。
しかし、もう家庭教師は辞退しようと覚悟。

その後、立山に誘われて、日曜日に一緒に隅田川沿いにある製鋼所の重作業のアル
バイトなどに。
1日8時間労働で1万円が支給されるうま味があったが、危険で汚く(研磨作業で
面とマスクをくぐって大量の鉄粉を浴びた)きつい作業。アルバイトの翌日は一日
死んだように職場の机にもたれていた。

アルバイトではないが、収入のみちとしては自費出版の小説などの頒布は、意外な
反対給付となった。
目的は、文学部学生として、稚拙な内容だが短編小説やエッセイぐらい書いて、職
場の仲間やクラスメイトに見て貰いたかったこと、わら半紙にガリ版印刷し、ホッ
チキスで止めて製本したのを、1部100円で頒布。作成した200部はすぐに無
くなった。
合計2万円の現金が入った。
勿論、これは3回ほどで霧消した。仲間たちと酒場に繰り出して費消したからだ。
こんなことを何回か行ったが、あの時の文章は喫茶店や講義中や、あるいは仕事中
に書いたはず。

土曜日の午後は、まずバレーボールの練習だったが、そうでない時は職場か大学の
ガールフレンドと、日比谷に出て演劇を観てお茶をしたり、新宿で映画の帰りにパ
ブで酒を飲んで談笑したりしていた。

話せば切がない、18歳から22歳頃までの追憶。
きっと誰にでも、「あの頃が一番良かった」「あの頃のことは忘れられない」
と言える時期があるのではないでしょうか。
特に若い人たちは、いつの日にかそう思える時がやってくるのでしょう。
私は今朝も喫茶店の窓辺から、街を行き交う人々の群れを眺めながら、そんなこと
を考えていました。
そして、自分の場合はどうだろうかと。

私の場合は、青春時代の先駆けの頃の一部を前述したように、常に、未熟な精神と
熱い肉体をがむしゃらに駆使しながら、歓喜の声を張り上げ、あるいは人知れず悲
嘆のすすり泣きを漏らしていた17歳から27歳までの10年間。
東京オリンピックが開催された昭和39年から、結婚して独身時代に別れを告げた
昭和49年までの、光と影が眩いばかりに交差していた日々。
あの10年間が、今までの人生の中で最も忘れられない季節であることは、間違い
ありません。
これからも、いや、これからこそ、しばしば心のスクリーンに、つい昨日の出来事
のようにリアルに映し出されてくるあれこれの追憶に、静かに浸ることも多々ある
ことでしょう。

「想い出の無い人生は、不幸である」という格言があります。
そう考えると、本当に幸福なことと思わざるを得ません。
まだまだこれからも、良き思い出となる演出と、老いたるとはいえ凛然として主演を
演じていきたいもの。
「俺たちに、明日はある!」という題名で。

それでは良い週末を。