田 舎 者 |
先週の昼食時での出来事。 場所は六本木の某有名ステーキ店。 私は、昼食時になると週に1〜2回、この店で「ステーキランチ」を注文。 値段は約4000円。ランチにしては高いが、夕食のメニューで頼んだら優に1万円を超 す内容なので、割安感は十分。 最近は殆ど夜の外食や、盛り場巡りをしないので、この程度の贅沢は許容範囲と認識。 良い値段に比例して、店員の応対も店内の雰囲気もグレードの高さを感じる店。 私はいつも、全従業員(フロア担当の黒服や白衣のコック)が出迎える開店の11時半に 入店。 広いカウンターに1人座り、グラスビールを飲みながら 食事をとっているのです。 当初は、静かな店内で何人もの従業員に見られながらの食事は、何となく緊張を強いられ ましたが、すぐにそれが心地よいものに。 「何人もの黒服やコックが、俺の挙動をさりげなく見ている。しかし、意識する必要はな い。ゆっくり、何事もゆっくり自然に行えばよい。ほうれん草のソテーを口に運ぶ。バタ ーの香りと塩コショウ、そして微かな醤油で味付けされたほうれん草を味わう。冷えたビ ールを飲み、口腔を爽やかにし、次に焼きあがったヒレステーキを。目を閉じながら、肉 がペースト状になるまでゆっくりと噛みしめる。誰にも邪魔されない至福の時間・・・」 最後のデザートと珈琲を喫食し終えると、大体12時15分。45分間の午餐。 店内は三分の二ほど席が埋まり、あちこちの鉄板から香ばしい湯気が上がり、客の話声で 一気に賑やかになってきます。 話はそうした午餐を終えようとしている時のこと。 二人のノーネクタイでスーツ姿の年配の客が、私の2つ隣に着席。 70代前半と思しき、浅黒く日焼けした小柄だががっしりした男が、緊張気味に周囲をキ ョロキョロ見回しているもう一人の男を招待している雰囲気。 得意げの男は「何、ここは俺の馴染みの店なんですよ。遠慮なく食べてくださいよ。おい、 まず生ビールを持ってこいや」と後方に立っている黒服に大声を出し、カウンターのコッ クに「ヒレを焼いてくれ。食べるならヒレだよな。いいところを50g増量しておけよ。 おい、お前は俺のこと覚えているだろう。3年前まではしょっちゅう来て、焼き方を鍛え てやったもんな。腕が上がったか」と、何様かと言う態度で饒舌に。 コックはそれほど親しくないのか、逆に嫌っているせいか戸惑った表情で「ええ・・・」 と言っただけで、目線を合わせずに作業に集中しているだけ。 私は、「どこにでもこういう客がいるな。店の者はカネを落としてくれる客だから、どん な相手でも愛想笑いの一つもし、ハイハイと従順に対応しているが、客はそれを勘違いし て増長してしまう。まさに田舎者だ」と苦笑して、私は席を立ったのです。 エレベーターまで見送りに来た支配人に「あの人たちは馴染み客?」と聞くと「とんでも ない。たまに来るだけですよ。ほんと、最近は成金的な偉そうな客が多くて、嫌になりま すよ」と、私に耳打ちを。 田舎者と言いましたが、田舎者の意味は第一義的には「田舎の人。田舎育ちの人」。 しかし、第二義的には「ものを知らない粗野な人をさげすみ、ばかにしていう言葉」。 田舎とは「都会から離れた土地。地方」。 今どき、物理的に地方からきたというだけで「あいつは田舎者」とは言わないでしょう。 要は、言葉遣い、所作、振る舞いなどから、物を知らない粗野な人柄を馬鹿にした第二義 の意味で用いるのが通常。 同義語で表現すれば「野暮な者」「不粋の人」。 地方から東京に出てきて働いている人でも、常識や気配りなどをわきまえて洗練されてい る人は「都会人」、あるいは都会が余計ならば「粋な人」。反対に、都会で生まれ育って も無粋なひとは「田舎者」。 以前のこと。 とある静謐なホテルのバーで、ウイスキーのハイボールを飲んでいた時。 高価そうなスーツで身を固めた紳士風が、いかにも場慣れした風情でふらりと入ってきて カウンターに座り、タバコに火をつけながら「ブランデーをシングルで頼む」と一言。 バーテンダーは「コニャックにいたしましょうか?」うやうやしくたずねると、急に紳士 風は「何を言っておるんだ。俺の頼んでいるのはブランデーだ!」と怒るのです。 バーテンダーは機敏に頷いてその場を離れたのですが、コニャックはフランスのコニャッ ク市を中心に生産され集散されるブランデーの、高貴な呼称。 機転をきかしたバーテンダーは、サントリーのブランデーでも出したのかもしれませんが、 この紳士風田舎者には、内心笑ってしまいました。 ところで、夏目漱石の良書「三四郎」(新潮文庫)。 久々に文庫本を手に取り1ページ目をめくると、冒頭の文はこうあります。 「うとうととして目が覚めると女はいつの間にか、隣の爺さんと話を始めている。この爺 さんはたしかに前の前の駅から乗った田舎者である」と。 福岡県真崎村という田舎出身の三四郎が、熊本の高校を卒業し、東京帝国大学に入学する ために汽車に乗って上京するところから、物語は始まるのですが、三四郎自身は自分は田 舎者で、ビルが建ち並び、汽車や自動車が行きかう大都会への憧れとともに劣等感がある ことも認識していたのでしょう。ところどころに「田舎者」という言葉が出てきます。 例えば、浜松駅に停車中、三四郎は車窓からホームを行き来する乗客の中から、西洋人の 上下真っ白な着物を着た美しい女性を見つけ、一生懸命に見惚れていた。しかしすぐに 「自分が如何にも田舎者らしいのに気が着いて、早速首を引っ込めて着座した」と文章は 続いています。 1ページの田舎者は、「田舎の人」そのものを言っているのであるが、後者の三四郎の 「美しい女性にいつまでもボッと見惚れているさまは、まさに田舎者」と作者が表現して いるのは、明治41年当時の小説にして、実にわきまえている感があります。 話はそれましたが、自己中心的で、知ったかぶりで、傲慢で、恥知らずで、無粋な人が渦 巻く昨今の東京。今や東京は田舎者で満ち溢れた都市。広辞苑に「田舎者とは、野暮で無 粋な都会に生活する人」と書き加えられるべきではないでしょうか。 いずれにしろ、粋な御仁が滅法少なくなった東京の現実に、ため息が出るばかり。 「東京オリンピックは、おもてなし」のキャッチフレーズもいいが、日頃から「粋で、人 情溢れた東京」を、今から目指すべきと思うのです。 それでは良い週末を。 |