東井朝仁 随想録
「良い週末を」

 友 か ら の 電 話

時は、先週の水曜日(22日)の午後1時半。
場所は、地下鉄・三田線「板橋本町駅」から徒歩5分のところにある定食屋。
私は、その何の変哲もない定食屋で「五島牛フィレ・ステーキ定食(200g)」を、生ビ
ールを飲みな
がら食べていました。

店内は4人掛けのテーブル席が2つ、カウンターの高椅子が4つだけの小さな定食屋。
店の入り口は、まさに大衆食堂によくある、ガラスの引き戸4枚からなる造り。
中が蕎麦屋でも畳屋でも、可笑しくはありません。
そのガラス戸に、「風おどる夏 ようこそ四季彩の上五島へ」のキャッチ・フレーズと、
紺碧の海に浮かぶ明るい緑の島々の写真とが絶妙にマッチした、上五島町の観光ポスター
が貼られてます。
その横のガラス戸には、「五島牛カレー、海鮮チャーハン、長崎皿うどん各700円、長
崎ちゃんぽん800円、五島美豚(びとん)ステーキ定食、五島美豚とんかつ各1300
円、五島牛フィレステーキ定食5300円」と書かれた模造紙が貼られており、この店が
飲食店であることと、どんな料理を食べさせる店なのかがわかるのです。
さらに、この2枚の貼り紙と、予め聞いていた「がんがん行こうぜ五島列島」という奇妙
な店名がそぐわない気でいたのですが、それでもランチタイムのピークが過ぎた時間、都
心から離れた板橋本町という地域性そのものの様な、ゆったりとした雰囲気が店内に漂っ
てくると、私は何となく、この店の特色がわかるような気がしてきました。

私が入店したのは午後1時過ぎ。
客は二人。高椅子に座って長崎ちゃんぽんを食べている70歳ほどの男と、4人用のソフ
アで五島美豚ステーキ定食を食べている若い男。
私は店の奥の4人掛けのテーブル席で、ぶ厚いフィレ肉を交互に口に運びながら、A君と
喋っていました。
客の二人が居なくなると、A君は厨房の店長兼シェフの65歳の男性に、暖簾を降ろして
休憩するように指示。そして自分の昼食用としてかつ丼をあつらえてくれるように依頼し、
自ら焼酎のボトルを持参。
焼酎は芋焼酎の「五島灘」。店長にも「Bさん、こっちに来て飲みましょう」と声をかけ
ると、Bさんは「いえ、私は結構ですからどうぞ、おやりになってください」と遠慮がち
に言い、手際よくつまみに「カツオの燻製」を皿に山盛りし、並べてくれました。
私はA君と芋焼酎のオンザロックで乾杯。口に含むと芳醇な味とほのかな甘い香りが広が
って、思わず「うまいなあ」と感嘆。
五島唯一の酒蔵で醸成された焼酎とのこと。

そう、先ほどから出ている「五島」とは、長崎県の五島列島の総称。
五島列島の一つである中通島にある「南松浦郡新上五島町」がA君の故郷で、現住地。
彼はここから前日に上京。
私の携帯に電話があり、「東井君?五島のAですが」との懐かしい声が響きます。
「ああ、A君か?いやあ懐かしいな。元気?前に会ったのは俺たちが高校を卒業した翌年、
君が上京した時だったよな。電話で話したのは、かれこれ7~8年前になるかな?」
「そんなもんやね。さっき上京してね」
「どうしたの?」
「いま店におるんよ」
「店?なんだそれ?」
「僕の店よ。2年前から板橋本町で定食屋をやっているんよ。たまにしか来んけどね。
今年になってから元プリンスホテルのシェフだった人に、店長をして貰って、僕は一応経
営者として月に2〜3日様子を見に来るだけなんやけどね。五島で民宿をやっているから、
なかなか来れんのよ。
今までも月に1回上京し、その時に数日しか営業はしておらんかったんや。それがここの
地域の評判になってね。「幻の名店がある」「五島牛のフィレ・ステーキが絶品だ」と。
近所のお医者さんなど根強いリピーターが増えて、それからタウン誌に取材されて、ネッ
トでブログが評判になっているんよ。一度来ないかな?」
「そうか、それはすごいな。明後日帰るのなら明日の昼に伺うよ」
「是非そうして。板橋本町の駅からすぐだけど、ネットで見るとよくわかるよ」
そんなやりとりをして、翌日の昼、11時半開店の時間から2時間ほどずらして訪問した
次第。

「がんがん行こうぜ五島列島」で検索すると、たちどころに多くのサイトが。これにも感
嘆。
現在地の定食屋は、それまで息子(3男)がラーメン店を営業していた店舗。
「がんがん行こうぜ」のキャッチフレーズはその時、息子が使用していたもの。
息子が転職した機に、居ぬきで店舗を引き継ぎ、現在も五島で営業している民宿での料理
経験を生かし、夫婦で「五島列島の食材を生かした定食屋をやってみたい」「東京の人に
五島の食材の美味しさを知ってもらいたい。採算は二の次」「営業は都合の良い時に上京
し、数日営業して帰るという変則的な営業でやれるだけやってみる」ということで、月1
回、季節によっては数か月に1回の「摩訶不思議な営業」をスタートさせたとのこと。
今年からは、前述のとおりシェフ(注・客で来られていた人)を雇い、彼を店長にして店
は通年営業にし、自分は月1回、経営者として様子見に上京するパターンに。
今回はそんな折、ふっと私のことを思い出し、電話をしたとのことでした。

彼が次々と頼んだマグロの刺身や菜の花の辛し和えなどを食べながら、焼酎のグラスを傾
けて大いに歓談。
高校の頃から今に至るまで、常に笑顔を絶やさず、人の悪口は言わず、居丈高な態度とは
無縁なA君。
店では、客の誰かれなしに、五島の食材のお通し、小鉢料理を無料で幾つもサービスし、
「これで赤字にならないの?」と心配されても「大丈夫ですよ、東京で仕入れていたら、
とてもじゃないけど商売として成り立たないですけど、五島列島から直接送って行けば、
十分成り立ちます」と答えているそう。
A君にさりげなく店の収支を聞いたら、御立派のひとこと。
そんな商才が彼のどこにあったのか?
高校時代は目立たない一般的な生徒で、卒業後も親元の天理教の教会の手伝いをしている、
人柄のいい平凡な男と思っていたが。今は、奥さんと二人三脚で民宿を経営し、長男の歯
科医院の事務長をこなし、そして五島から東京に出てきて飲食店を経営している。
なかなかのものです。

歳月が人を変えたのか、私が彼の資質を知らなかっただけなのか、いずれにしろ喜ばしい
春の椿事。
だいぶ前の正月、おとそ気分で電話してきたA君は「これから教団も変わっていくよ。い
や僕たちが変えていくんだ。そういう問題意識を持った有志が何人も出てきているんよ」
と朗らかに語ったことに対し、私は「どこの宗教でも、お布施やお供えや寄付で、のうの
うと生きている内部の人間は、世間を知らない。汗水流して働いて金を得るという一般庶
民の苦労をわからずに、高みから御大層な説経を垂れているだけだ。社会へ出なくては。
大衆の中に入り同じ目線から神や仏を語らなかったら、組織は形骸化する。もう宗教は堕
落しているがね」と電話で辛辣に論じたことを思い出し、改めてまじまじとA君の顔を見
つめ直しました。
彼は「あせらずにね、あと2〜3店舗開業するつもりなんや。五島の食材を多くの東京の
人達に食べて貰いたいのよ」と朗らかに語るのでした。
私は、口内に広がる芋焼酎のふくよかな芳香を飲み込みながら、黙って微笑みを返してい
ました。

翌日、A君に電話。
「昨日はありがとう。美味かったよ。今度来るときはまた教えて。夜にでも飲みに行くよ」
「こちらこそ、遠いところまでありがとう。東井君も知っているだろうけど、僕はこの言
葉が一番好きなんや。「40、50は鼻たれ小僧。60、70は分別盛り。80からが働
き盛り。
115歳が定命(じょうみょう)と、病まず死なず弱らずに、それから先は心次第」。
70歳になって、いつ倒れるかいつ死ぬんかと考えるより、まだ45年も人生があると考
えるとね、希望が湧いてくるんだ」
「働き盛りの働きとは、金を稼ぐために働くことではなく、ハタ(傍)をラク(楽)にさせる
ことだろ。
人のために動くことだよな。そうありたいものだね」
「そうだね。僕は今が一番楽しいな。人生楽しく生きなくちゃね」
「そうだな。陽気に楽しまなくちゃな。それじゃあまた」
「じゃあ、また」

遠来の 友と語る日 桜咲く。
今年も春がやって来ました。

それでは良い週末を。