く じ け ず に |
数日前にGWが終わりました。 今年も5連休(5月3日〜7日)だ9連休(4月29日〜5月7日)だと言って、多くの 国民が国内外を移動。 連日、繁華街や観光地の賑わいぶりがテレビで報道されていました。 そしてGWの終わりごろは、空港や東京駅にUターンした家族連れへの恒例のインタビュー。 大人には「どこに行ってきたのですか?」「何日間?」 子供には「何をしてきたの?楽しかった?」と。 大人は「シンガポールに5日間。くたびれました」、子供は一様に「おばあちゃんちに。 楽しかった」などと返答。 私はよそ様のこれらの光景に、何の感動もなくテレビを眺めていたのですが、それでも 「海外や両親の故郷や遠方の観光地に、こうして連れて行って貰える子供は、幸せだ」と 思いました。 親が不在又は病気、家庭が貧乏、金はあっても親が休めない、あるいは親にその気がない などの理由で、宿泊旅行どころか近場の行楽地さえも連れて行って貰えない。 そんな子供も、世の中にはたくさんいるでしょう。 私はこのGWは、連日のように一人で(たまに配偶者と)家の近くの商店街や都内の繁華 街や観光スポットをぶらつき、喫茶店で珈琲を飲んだり飲食店でビールを飲んだりしてい ました (毎年、この時期の旅行は避けている)。 そんな時に家族連れで来ている子供たちの姿を目にすると、訳もなく「良かったな」と思 わざるを得ませんでした。 こうした心情は、私特有のものかも知れません。 「ハワイとか、ママの故郷の九州とか、飛行機や新幹線に乗っての旅行には行けなかった のかもしれないが、こうして家族で外食に行けるのだから、良かったよな。父親や母親が まずは元気で、子供を思う心があるから出来ることなんだ。それは少なくとも、君たちが 家族に包まれているということなんだ。孤独ではないということだ」と、言葉を投げかけ たくなるのです。 しかしそれなら、旅行にもレストランにも連れて行って貰えない子供は、すべからく不幸 かと言うと、私はそれは断じて違うと思うのです。 反対に、海外旅行などに行ける子供が幸せかと言うと、それも断じてそうは言い切れませ ん。 それでは、子供たちの幸せの条件とは何をいうのでしょうか? 私は、前述していますが「孤独ではないこと」だと思います。 孤独。 広辞苑には「みなし子。仲間のないこと。ひとりぼっち」とあります。 親がいない子、親がいても虐待されている子、ほったらかしにされて家庭の温かみを知ら ない子、地域やクラスに人はいっぱいいても、友達が一人もいない子、いじめられている 子、無視されている子。 これらの子供は「孤独」で、いたいけな心が震えているでしょう。 だから、旅行にも行けず、レストランにも連れて行って貰えない子供でも、良い友達がい る子や、家でご飯を作ってくれる親がいる子は、心が冷めることはないでしょう。 全ては十分に備わっておらずとも、幸せの必要条件は持ち合わせていると言えるでしょう。 私には子供が3人います。 これらが小さい頃、家族全員で宿泊旅行をしたことは、たった一度だけでした。 それは知人から、箱根のあるレジャー施設に招待されたとき。 子供たちは屋内プールで泳いだり、配偶者は小学生の娘とテニスの真似事をしたり。 たった1泊の楽しい小旅行でした。 GWは、手作りの弁当と麦茶を持参して上野動物園に行ったこと。子供が大学生になるま での毎年の恒例で、高級焼き肉店に連れて行って、最上の肉をたらふく食べさせていたこ と。 そうした記憶しかありません。 今の時代では通用しないのかもしれませんが、連休のたびに、あちこちに連れて行くなど ということは、考えもしませんでした。 私が子供たちのことで一番心を砕いていたことは、「友達をつくって、楽しく遊べる子」 に育って貰いたいこと。 一度こんなことがありました。 長男は、生後3か月の健診で脳性マヒの疑いがあるとの診断を受け、それから1年間、都 立療育院に肢体のリハビリのために通院しました。 その後、健常児と同様の肢体機能に至り、元気に育っていきましたが、何をやるのも同じ 年の子供たちに遅れを取っているように、親の私には映って見えました。 そんな長男が4歳の頃のこと。近所の子供たちと家の裏で仲良く遊んでいた長男の、激し い泣き声が聞こえたのです。 私が、そっと外に出て様子をうかがうと。近所の同じ年頃の数人の子供たちに「遊んでや らない。あっちに行け」とからかわれていました。それでも泣きながら子供たちの輪に入 ろうと近づくと、みな喚声を上げながら逃げていくのです。 長男は、道の電柱のところに立ち止まり、うらめしそうに彼らを眺めながら「いいよ、い いよ・・・」 と、自らを慰めるようにしゃくり泣きをしていました。 私はいたたまれずに近寄り、「もう帰ろう。あんな連中と遊ぶな。お父さんと遊ぼう・・」 と声をかけるのですが、涙を袖口で拭いながら「いやだ」と言ってききません。 すると、そんな様子を向こうから眺めていた近所の子供たちから「来いよ〜」と、長男の 名前が呼ばれ、その瞬間、長男はほっとした表情をして、彼らの輪をめがけて駆けて行っ たのです。 その時、「親が遊び相手になったり、金や物を与えて子供を満足させようとしても、根本 的には子供の心を満たす事は出来ない。子供にとって大切なのは仲間、友情なのだ」と、 つくづく痛感させられました。 そんな3人の子供たちも、今や早や30代。 仕事で世界を駆け回り、子供たち(私からは孫)を車に乗せて国内の温泉巡りに出かけた り。 親として何も与えてやる事は出来なかったが、人として果たさなければならない、最低限 のケジメだけは教えたと思っているのです。 今でも、昼休みの校庭の鉄棒のあたりで、一人ぽつねんと立っている子供を見ると、心が ざわめきます。 あの頃の息子の姿を見るように。 「遊ぶ友達が誰もいないのだろうか。向こうでみんな元気に楽しく遊んでいるのに、仲間 外れにされているのだろうか」と。 その寂しそうに佇んでいる後姿が、いつまでも気になってしまうのです。 それは中学生や高校生でも同じ。 登下校の時、みな2〜3人の仲間同士がはしゃぎ合って歩いている中、たった一人でうつ むき加減で歩いている女の子を見かけると、とても気になるのです。 「愉快な話をしたり、一緒に帰る友達が、一人もいないのだろうか。部活の仲間などはい ないのだろうか」と。 私は、人間の不幸の根底にあるのは、大人も子供も「孤独」だと思っています。 貧乏でも、地位や力がなくても、家庭はみんなバラバラでも、それでも誰か一人、心を通 わせることができる人がいれば、人は明日に希望を託して生きていけるのではないでしょ うか。 孤独に震えている人を、そっと包み込んで温めてあげる人が一人もいない社会など、どこ かおかしい。 今の社会は、果たしてどうでしょうか。 今年のGWは晴天に恵まれました。 各地は行楽客で盛況を呈していました。 光り輝く季節でした。 しかしその一方で、今日も陰に隠れながら光を求めてさまよう人々が、きっと多くいたは ず。 そうした孤独という陰に覆われて生きている人たちがくじけないよう、私たちはもう少し 他人への思いやりに心を砕いてもいいのではないのか。それは他人の為だけではなく、自 分の人間としての「矜持」を失わないことでもある のだから・・・・ そう強く思った、今年のGWでした。 それでは良い週末を。 |