東井朝仁 随想録
「良い週末を」

52年目の同窓会

先々週の週末に開催された、高校時代の同窓会。
集いの名称は「天理高校・昭和41年卒業古希同窓会」。
奈良県天理市にある私の母校。
その昭和38年4月から昭和41年3月までの間、学窓を同じくした者が卒業後52年間
の歳月を経て、集まったのです。
この昭和41年春に卒業した同窓生は、まさに「団塊の世代」。
当時のクラスはA組からP組まで16クラスあり、学年で約800名の塊を擁していました。
したがって授業中も放課後も、様々な個性的な生徒が入り乱れ、賑やかでエネルギッシュ
な雰囲気が学園に満ち満ちていました。

天理高校の学業(有名大学への進学率)のほうはイマイチでしたが、体育系・文科系を問
わずに部活は活発で、吹奏楽部は全国コンクールの常連優勝校であり、野球部・柔道部・
ラグビー部・水泳部なども強豪校としてその名を馳せていたのです。
私自身は、中学時代はこれといったクラブ活動を行っていなかったのと、名もない(私自
身、天理高校については全く無知でした)田舎の高校に、親の勧めで入れさせられ都落ち
の心境に落ち込んでいたので、部活には一切興味がありませんでした。
しかし、入学してすぐに同級生に誘われ、先輩のラグビー部員を訪れたのが運のつき。
強引に勧誘されてラグビー部に入る羽目になり、その後、挫折して退部した話は過去にこ
の欄で述べた通り。
でもその後、寄宿舎には直帰せず、毎日の放課後は大学の図書館の閲覧室に通っていまし
た。
そこで孤独と暇を打ち消すために、授業の復習と予習に没頭していたのですが、お陰で成
績が急上昇。
気障で鼻持ちならない言い方ですが、「授業中が一番面白い」と真に感じられる日々を送
っていました。
すると徐々に親しい級友も増え、文科系のクラブの部長や生徒会の役員、体育大会の実行
委員長などの役をこなすうちに、学園内の色々な人々とも交友する機会を得てきたのです。
振り返ると、第2学年第3学年の2年間は、我が人生における希望とロマンと歓喜に満ち
た、忘れられない青春の一時期でした。
その時の同窓生と、52年ぶりに再会する。このような機会は私にとって最初で最後にな
るだろう。
そんなセンチメンタルで昂った感情を抱きながら、はるばる天理での古希同窓会に臨んだ
のでした。

結果。
52年という歳月の流れは、良くも悪くも人を変えるものです。
それは当然の理。
当時18歳という、まだニキビや紅い頬が残る未成年の若者が、今や70歳の高齢者に成
長・変貌しているのですから。
「おお、東井君か。久しぶりだな。〇〇だよ」
白髪の恰幅の良い男にそう言われても、誰だったか全く思い出せません。
「ああ、どうも」と笑顔で答えるのが関の山。
「ええっと、貴女は誰だっけ?」と尋ねると、
「私よ。M組の〇〇よ」
「んんっと、ちょっと待って・・・」
誰かが持参した卒業アルバムを開いて探すと、同じクラスだったAさん。
でも、卒業アルバムで確認できたAさんは、クラスでも目立たない大人しい生徒だったは
ず。
それが今や、赤いドレスで身を包んだ、一見、バーのママさん風。
このように、殆どの男性や女性に、懐かしさを感じさせる取っ掛かりは何も見当たらず。
残るのは、お互いに知り得ぬ長い歳月が流れ去ったという実感のみ。

当日の出席者は87名。
全体のほぼ10パーセント強、9人に1人の参加者でした。
この数字は多いのか、はたまた少ないのか。
約800名いる同窓生のうち、参加者が87名いたと捉えるか、参加しなかった(参加で
きなかった)者が700名強にも上ったと捉えるか。
改めて、52年の歳月の経過に思いが至りました。
そして、こう考えました。
「今回参加できた人は、幸せな者ばかりなんだろう」「いや、辛い日々を送りながらも、
心を慰めるために、久しぶりに青春時代の仲間に会いに来た者もいるのかも知れない」と。
金持ちになった者も、事業に失敗した者も、出世した者も、失意のうちにある者も、
この世の中で、今でも「俺、お前」「君、僕」と上下の隔てなく、そして気兼ねなく呼び
合って笑顔を交わせる世界。それはもしかしたら、この52年前の高校3年生の頃の面影
だけを信じて、こうして寄り集った当時の仲間たちの中にしか、見いだせないのかも知れ
ません。
その意味で、同窓会に参加できた人たちは幸せです。

皆、年を取りました。
そして、これからも年を重ねていくのです。
しかし、病気と闘っている者も、失意に唇をかみしめている者も、どんな人々も若き日の
辛くも歓喜に満ちていたあの頃の思い出は、きっと心の中から消えはしないでしょう。
そう信じて、「みんなそれぞれ、後の人生を楽しく頑張っていこうな!」と、新幹線の中
で涙をこらえてエールを送りたかった、52年目の同窓会でした。

それでは良い週末を。