来てうれしい、帰ってうれしい |
「孫は、来てうれしい、帰ってうれしい」という言葉があるそうです。 小学校に上がるぐらいまでの孫が親に連れられてくると、どの祖父母もわけもなく嬉しく なるということ。みんなでお茶を飲みながら、孫のあどけない顔や仕草を眺め、その成長 ぶりについて談笑しているだけで、何となく幸福感が湧いてくる。 「来てうれしい」はそんな気持でしょう。 しかし、孫たちの滞在が長くなるにしたがって、孫の面倒を見る羽目になる祖父母(私ど も)は疲労困憊。「可愛い可愛い」と言っているだけでは済まないからです。 そして、孫たちが帰るときになると、駅や空港まで見送りに行き、遠ざかる姿が見えなく なって、初めて老祖父母は安堵の気分に浸るのです。「帰ってうれしい」と。 先週の4日から今週の11日までの1週間、プラハから一時帰国した次男夫妻と2人の孫 が、我が家に滞在していきました。 今は、次男は国内の仕事を済ませてプラハへ戻るところ。嫁は子供を連れて兵庫県の実家 に里帰りしてから。私どもは、まだ彼らと過ごした毎日の賑やかさの余韻と共に、軽い倦 怠感が身体に残っており、ぼっと呆けている有様。「来てうれしい。帰ってうれしい、け れど寂しい」という気持が正直なところ。 この1週間の孫たちの滞在中、今までの我が人生を振り返ってしみじみと実感したことが ありました。 「70年間の歳月を要したが、何とかこの点では『ましな人』になれそうだ」ということ なのです。 それは、毎晩、2人の孫(4歳の男の子と1歳の女の子)が寝静まった後、1階と2階の トイレの清掃を行っていたこと。 4歳の孫が自分で用を足すのは成長の証で微笑ましいのですが、決まって便器とその周辺 を汚してしまうので、一日の終わりに私がトイレの清掃を励行することに。次男夫妻は我 が子といえども、折角遠路訪ねてきてくれた(帰宅してくれた)お客でもあり、また、配 偶者は毎日山のように食事や洗濯を抱えている。せめてトイレ掃除ぐらいは私がやろうと。 便器の周辺、床を雑巾で拭き、便座の蓋を開けてトイレ用洗剤を便器の中に吹き付け、そ れをモップで柔らかく擦り、ペーパーで便器の内外を磨き上げます。ときに便が便器内の 隅や便座の裏などに付着していたりするのですが、それも何の抵抗もなく黙々と清掃しま す。 便器の前にしゃがみこみ、便器の内や外や裏や排水口などを矯めつ眇めつ凝視しては、手 を一生懸命に動かしていると、ふっと不思議な思いに駆られます。 「今まで、トイレ掃除など全くやらなかった男が、いまこうして何のわだかまりも持たず に行い得ている。変われば変わるものだ」と。 物心ついてから「便所掃除などは汚いから嫌だ。できたらやりたくない」との思いが強か ったのが、この2、3年で変化してきたのです。 「誰かがやらなくてはいけないこと。それなのに見て見ぬ振りしながら母親や配偶者に任 せきりできた」という狡い身びいきな考えに、負い目を感じてきたのです。だから最近は、 少しでもトイレで汚れを見かけたら、無意識的に拭き清めているのです。まさにルーチン として。 そうした行動の変化の根底には「たった一度の短い我が人生における、縁という運命で繋 がっている地球上で唯一無二の家族。配偶者や兄弟や子供や孫・・。世界でこの連中の味 方になって守ってやれるのは誰だ。それは自分しかいないだろう。自分がやらずして誰が これらを守るのだ」という深く熱い思いがあるからなのです。遠大なる人間の哲理とトイ レごときを結びつけるのは、いささか大袈裟で卑近で噴飯ものですが、家族のためならト イレ掃除でもやる、というのが単純な心境なのです。 ある夜、便器の前に座って便座を磨きながら、「配偶者や子供や孫を助けたかったら、そ の便座に付着している汚物を、お前の舌できれいに拭ってみろ、と絶対権力者から恫喝さ れたらどうするか・・・。 私は躊躇なくそうするだろう・・・」と漠然と考えました。愛おしい者たちのこれらの便 は、もはや汚いものではない。しかし、その汚物が赤の他人のものだったら、相当の抵抗 感・嫌悪感と闘わなくてはならないだろう、とも思いました。 「来てうれしい、帰ってうれしい」孫たちが来てくれたことにより、それまで気が付きも しなかった、名状しがたい何か大切なことが、ストンと腑に落ちた気がした夜でした。 それでは良い週末を。 |