サ ル ビ ア の 花(2) |
昭和49年(1974年)10月12日。 私が27歳の誕生日(10月1日)を迎えてから11日後。 仏滅に当たるこの日の午後、市ヶ谷の私学会館で行われた私とA(今の配偶者)の「結婚 を祝う会」。 友人や同僚数人からなる実行委員会が、私の企画に沿って開催の準備と当日の進行を行っ てくれました。 一般社会のそれとは、およそ異なる結婚披露宴。 仲人無し、ご祝儀無し(会費制で実施)、引き出物無し、新郎新婦入場の際のウエデイン グ・マーチ無し(それに代わる、ジャズ演奏「世界は日の出を待っている」のレコード音 楽)、ケーキ入刀無し(代わって酒樽割り)、新郎・新婦のお色直し無し。そして案内状 の郵送先は、友人・同僚・先輩・恩師。 親族はキリがないので双方の両親と兄弟のみ。 大勢の心ある参加者に恵まれた祝う会は、愉快に楽しく盛会裏に終わりました。 その後、私は皆と別れがたく、急遽大挙して新宿に繰り出し、2次会、3次会と飲み騒ぎ、 当夜の宿泊先のホテルオークラにタクシーで帰還したのは、午後10時過ぎ(注・当時、 Aは外務省勤務。外務省職員は一流都市ホテル等の宿泊料金が、50%offに。それで利用)。 翌日は、一応新婚旅行ということで、思いつくままに新幹線に飛び乗り、関西方面へ・・・。 ここまでが、前回で述べたこと。 今回はその続きです。 結局、新婚旅行は兵庫県の城崎温泉に1泊、それに滋賀県にある親類の家に1泊というお手 軽なものに。 当時は結婚ラッシュで、ハネムーン先としてハワイ・グアムやアメリカ西海岸が人気で、 この頃から日本でも海外旅行が身近なものになっていきました。 でも、私たちは「それはこれから先、いつでも出来るだろうから」ということでパス。 (現に配偶者は、世田谷区の国際交流視察グループに入り、毎年、各国を訪問中) すぐに旅行から帰京した私たちは、残りの結婚休暇を利用して、毎日都内のあちこちを散 策し、映画や演劇を見たり、繁華街の飲み屋に行ったり、買い物をしたりして羽を伸ばし ていました。 ここで疑問を持った方がおられるかも知れません。 「新居はどうしたの?」と。 そうです。 私が婚姻で一番悩んだのが、新居のこと。 住居のことは、人生を通していつの時代でも主要な問題です。 結婚する1か月半前の8月下旬、祝う会を実施することをAに伝え、このことが実質的に婚 姻の決定に。 祝う会の準備作業の部屋にはたびたび顔を出し、色々とアイデアや要望を出していたわり に、これから自分たちが住む家の問題には、とんと無頓着でした。 それが結婚日の10月12日が近づくにつれて心配になり、取り合えず実家のある目黒区 のアパートを探索したのですが、どこも高値でいまいち。エリアを渋谷区、世田谷区、杉 並区に拡大し、何件か内覧しても同様。 Aは出産したら専業主婦になる意向だったので、私の給料だけで家賃を賄わなくてはなりま せん。 それで、目黒や世田谷エリアなどは諦め、ターゲットを家賃が低くなる他の地域に移しま した。 しかし安い物件は、都心から遠距離、最寄りの駅から遠い、建物が古い、間取りが狭い、 北向き、騒音など環境が悪いなどの欠点があります。 だが、これらの欠点を補う物件は、当然に高家賃に。 したがって「これだ!」と即決できる物件が、なかなか見つかりません。 家賃相場を決定する最大の要件の一つは、エリア、住む地域。 そこで、最後は池袋からの東武東上線沿線や、新宿からの西武新宿線沿線の不動産屋を廻 り、畑の土ぼこりが舞う道や、飲み屋街の裏道を歩いて幾つもの物件を内覧するのですが、 全てが不便で野暮ったく色褪せて見え、こう言うと語弊があるかも知れませんが「都落ち」 したような寂しい気分に襲われ、ほとほと疲れ切って帰ってくるのでした。 公務員宿舎の選択肢もありましたが、私は私生活というプライベートの場面で、同じ職場 の人達と顔を合わすのが嫌だったので、当初から考えていませんでした。 ただ1度、Aの勤務する外務省に好立地の宿舎があることを、以前にAから聞いていたの で、これに頼ることとし、Aの名義で外務省福利厚生室に入居申請書を出したことがあり ました。 そして後日、二人で外務省の喫茶店で中年の担当官と面接をしたのです。 私は「宿舎入居の申請時に、その結婚相手も呼び出して面接するのか?厚生省もこんなこ としているのだろうか?」などと考えながら「まあいいか」と、しおらしく対面。 担当官はコセコセした態度で書面に目を通し「Aさんの名義ですか・・」と思案気な表情 をし、タバコをふかしながら「どうだろうなあ・・」と呟くのです。 私は「Aさんは外務省の職員ですよ」と不思議そうに言うと、 「あまりそういう例はないですからねえ・・」 と、足を組みながらタバコをぷかぷか。 「Aさんも外務省の共済組合員じゃないですか」 「それでもねえ…上司がなんていうか。決済が取れないかもしれないし・・。 普通、外務省勤務の夫の名前で申し込むものですがねえ。東井さんですか、あなた厚生省 なんだから、そちらの宿舎を申し込んだらいかがなんですか?」 「厚生省宿舎は、一杯なんです(ウソも方便)。だからAさんに頼んだのです。決済でダ メになったらいいんですよ。一度あげてみてくださいよ」 「そう言われてもねえ・・・いま色々と案件を抱えていて・・・」 こんな会話をだらだらと。 私は「これは初めからペケと決めているな。前例がないからと。やはりこんな省の宿舎係 に期待したのが、馬鹿だった」とすぐに悟り、「Aさん、もういいから帰ろう。申請は無 しにしてください」と立ち上がり、驚いた表情の担当官の前に手土産の菓子折りを置いて 退出しました。 この時、「祝う会が終わって、まだ入居するアパートが決まっていなかったら、見つかる まで今のまま別居していればいい」と、腹をくくっていました。 ある日、帰宅した私は「いいアパートがないよ」と、台所の母に報告すると、母は炊事の 手を休めずに一言。 「とりあえずAさんのアパートに住んだら。それから焦らないで探したらどうなの?」 「俺がAさんの部屋に入るの?!」そもそも新居に対する切迫感など、さして持ち合わせ ていなかったのですが、それでもハッと閃くものがあり、「なるほど、急場をしのぐには それが一番だな」と返答し、すぐにアパートのAに電話。 当時は大家さんの家の取次電話。 「はい、○○です」と大家さんの声。「東井と言います。すいませんがAさんをお願いし ます」と依頼。 間をおいてサンダルの音と共に「すいません」という声が受話器の向こうから聞こると同 時に、「もしもし、Aですが」との息せき切った声が飛び込むのです。 私は、手短に要点を述べ、大家さんに許可してもらえるかどうかを聞いて貰うように依頼。 20分後に電話がありました。 大家さんの結論は「2人住まいは認めていないが、結婚ということなので結構。ただし雑 費一人分の500円をいただく」とのこと。 確か当時の家賃は7000円。それに500円足した家賃でOK。 トイレも風呂もないたった1部屋の安い住居でしたが、2階のAの部屋の窓からは公園の 緑が望め、静かで日当たりの 良い部屋でした。 Aの住んでいたアパートは、世田谷区三宿の世田谷公園の木立に隣接した大家さんの家の 敷地内に建っていました。 6畳一間の和室が上下3部屋ずつの、中古木造の2階建て。 それぞれの部屋には女子大生やOLが住んでおり、1階の玄関で靴を脱ぎ、それぞれの靴 箱に靴を入れて上がります。 部屋には小さな流し台とガス台があるだけで、トイレも風呂もなし。 廊下の突き当りに共同便所があり、風呂は近くの公衆浴場(銭湯)に、石鹸と手ぬぐいが 入った洗面器を抱えて行くのです。 新婚旅行から帰った私たちは、この6畳一間から新たな生活をスタートさせました。 私が持ち込んだのは、紙袋とボストンバッグに入れた、ご飯茶碗とお椀と箸。下着上下と 靴下とワイシャツと背広をそれぞれ2着づつ。それにあらかじめ母が贈ってくれたダブル の布団。 ただそれだけ。 いざという時に必要なものは、目黒の実家に取りに帰っていました。 小さな電気コタツを食卓にし、夕食を終えると三軒茶屋に向かう住宅地の道沿いにある銭 湯に行き、帰りは近くの焼き鳥屋で、熱燗を酌み交わして帰るような日々が続きました。 時は昭和49年(1974年)10月12日から。 ちょうど、世田谷公園の花壇に、赤いサルビアの花がつつましく咲いている頃でした。 すでに43年前のことですが、今でも懐かしく鮮やかに蘇ってきます。 しかし、その8か月後の昭和50年6月に、このアパートを退去して、新たな住まいを求 めることになったのです。 今度は父の一言を受けて。 話が長くなりますので、そのあたりは次回にでも。 それでは良い週末を。 |