サ ル ビ ア の 花(3) |
前回の話の続きです。 昭和49年(1974年)10月12日に結婚後、新居としたのは世田谷区三宿の世田谷 公園隣の、木造2階建ての中古アパート。 配偶者が住んでいる所に、私が潜り込んで同居する形をとったのです。 風呂も便所もなく、あるのは小さな流し台とガス台のみの6畳一間。 風呂は近くの銭湯へ、便所は廊下の突き当りにある共同便所に。 手や顔を洗うのは、流し台で。 そうした狭い新居も大して苦にならず、私も配偶者もそれぞれ厚生省と外務省に通勤しな がら、独身時代と変わらない日常生活を送っていました。 内心チラリと「いつまでここで生活するのか・・」と反問したこともありましたが、他の アパートに引っ越すとか、ローンを組んで一戸建ての家を購入するとかの発想は、殆ど頭 に浮かびませんでした。 そして、小さな電気コタツだけを頼りに、初めて迎えた寒い冬を越し、いつしか世田谷公 園の木々は新緑に萌たち、桜の花が満開になった頃、久しぶりに目黒の実家を訪問。 そして父とお茶を飲みながら話を。すると父から「これから先、住いはどうするのだ。子 供が生まれたら、いつまでも狭い間借り生活は出来ないだろう。ここに土地があるのだか ら、ここに家を建てて住んだらどうなのだ」と言われたのです。 私は、そのようなことは全く考えていなかったので、一瞬キョトンとしましたが、「なる ほど、将来を見据えて住いのことも考えないといけないな」とだけ肝に銘じ、その日は帰 ったのです。 実家といっても、その土地と家は、形式的には宗教法人の名義。 両親が戦後まもなく、天理教の巨大組織の下部組織にあたる一つの「分教会」の責任者と して、奇特な信者さんから、贈与(お供え)に近い安価な値段で買い受け、実質的に東井 家の家として維持されてきた不動産。 400坪の土地に我が家の住居兼神殿(12畳ほどの和室)の建物があり、その横に、住 み込みの信者さん家族の家が建っていました。 したがって、土地は広々とあります。 しかし、家を建てるとしたら、その趣旨は宗教上の関係施設ということに。そこで信者用 住居として家を建てることになります。 それによって固定資産税も免除されるのです。 私は、誰の名義であろうが、私たちが自由に住めればそれで結構と考え、後日、父にその 旨を返答。 そこで考えたのは、「これから先の人生で、住居もどう変わっていくかわからない。 だから、当面家族が安心して生活できる、それも、出来たらローンを組まずに、あるいは 極力ローンが少なくてすむ最低限の広さの家が望ましい」ということ。 私は配偶者に貯金額を聞き、色々な建物のカタログを集め、値段を調べ始めました。だが、 どれも立派で高額。 考えあぐねていた初夏のある日、アパートの近くの三軒茶屋駅周辺を当てもなく散策して いると、プレハブ・メーカーの展示場があり、小さなプレハブ住宅が展示されていました。 その小さな住宅を見学すると、すべて無垢の木材とその合板で造られた、中庭などに建て られる6畳一間の勉強小屋でした。 私は、頭の中で何かが閃きました。 そこで職員にズバリ「この勉強部屋のプレハブを、二つつなげて、それに台所とトイレを つけて、小住宅にできますか?」と質問。 そして、その場で即座に大まかな図面を描いて示すと、OKの返答。 このプレハブ・メーカーは、大和ハウスといい、当時、プレハブ住宅メーカーのパイオニ アとして、知られていました。 後日、担当者と再度詳細の打ち合わせ。そして見積もり。 間取りは、6畳の畳部屋1つ、8畳のフローリングの部屋1つ、3畳の板の間の台所、そ れに1畳の押し入れ、半畳の玄関、半畳のトイレ、1畳の玄関前の廊下。合計20畳、建 坪10坪のこじんまりした平屋の家。 風呂は無し。隣の母屋(両親宅)に貰い湯です。洗面台は、玄関前の1畳の廊下の端の壁 に、商品の中で最も小さな洗面台を取り付けました。 肝心の値段は、現在の価格で約400万円ほどだったと思います。 ちっぽけな、たった10坪程度の小体(こてい)な家。 私は、すぐに工事に入るよう依頼。 時は昭和50年7月。 ご存知のように、プレハブとは、工場で出来上がった部材を、現場で組み立てる建築工法。 だから、基礎工事から主材・屋根の組み立て、モルタル壁の塗り上げ、内部工事を経て完 成までの工期は、わずか1週間ほど。それにガス、水道、電気、水洗工事が入って合計 10日ほど。 見事なほど無駄のない、スムーズでしっかりした工事でした。出来上がりを見て、近所の おじさんが「風速60メートルの台風や、震度7の地震にも耐えうる堅牢さだな」と感嘆。 この小さな、それでいて窓の大きな家に引っ越したのは、本格的な夏の到来の時季でした。 結局、三宿のアパートには10か月ほどの滞在。 小なりと言えども、人生で初めて建てた我が家。 和室と襖で隔てた隣のフローリングの部屋は、食事や憩いの場として絨毯を敷き、和風的 な使い勝手にしました。 椅子やテーブルは置かず、食事用の座卓を中心に本棚やサイドボードやテレビを置いてい たのです。 したがって、寝起きの寝間は6畳の和室だけ。 子供が生まれたら、川の字で寝ればよい。それも楽しみだと考えて。 しかし、意に反して子供は産まれません。 月日が流れ、私たちはすでに諦めの境地に陥っていました。 それが3年後の昭和53年2月下旬、私が帰宅して玄関のドアを開けたとき、甘い芳香が 漂ってきました。 たった半畳の玄関の横に備えてある腰高の靴箱の上に、一輪の沈丁花の花差しが置いてあ るのに気づきました。 私が沈丁花の花が好きなことを、細くて小柄な配偶者は知っていたのです。 私は、靴を脱ぎながら「いい匂いだ・・・」と呟き、「内科のクリニックで診察してもら って、どうだった?」と配偶者に尋ねると、この日、体調が悪いので外務省の職場を休ん で受診に行った彼女は、「風邪ではなく・・妊娠しているんですって・・」と、小さな声 で答えました。 私は、反射的に「えっ!?」と驚嘆の声を上げた後、ずっと感慨にふけって沈黙をし、着 替えを終わって食卓の前に座り、一口ビールを飲み終わったあと、初めて、誰に聞かせる でもなく「良かった・・良かった・・」と呟き、思わず手を瞼にあてて嗚咽を漏らしてし まったのです。 その6か月後の8月、第一子(長男)が誕生。 晴れて念願の川の字寝が実現したのです。 それから2年半後の昭和56年1月、今度は長女が誕生。 6畳間で夫婦と2歳児と赤子の4人が寝るのは、難渋。 そこで、私は住宅の増築を検討。 今度は初めからプレハブ住宅に的を絞っていました。 そして、増築するなら2階をつくること。工法は「おかぐら」といって、平屋の上にあと から2階を付け足す方法(1階からの通し柱はなく、1階の4方の角に鉄柱を立て、それ を土台に2階を建築する。そして1階から2階に通じる内部階段を改築する)。 そう考えて適切なプレハブメーカーを探し出し、契約したのです。 そして2か月後の3月。鉄材や木材を積んだ大型車とクレーン車が到着し、工事を開始。 たった5日ほどで、1階に負けない頑丈でスマートな、6畳二間の2階屋が建ったのです。 建築費はたしか、現在の価格で250万円ほど。 まるで映画のセットのような、手軽で明るい、安価な2階建て住宅が出来たのです。 そして、その2年後の昭和58年1月に次男が誕生。 一家5人が、小さな家で平和に暮らしていました。 しかし、その4年後の昭和62年10月2日、父が77歳で病死。 この小さな宗教法人の教会責任者(法人では代表理事)だった父が亡くなったのを機に、 後継者を私の兄として推挙していた関係者の意思を黙殺し、上部組織は兄の代わりに他の 者をその任につけ、東井家を現在の土地から追い出す策動が蠢(うごめ)いてきたのです。 当時は世を挙げてのバブル経済の走りの頃。東京の一等地の土地を、上部組織の最高責任 者がこれを手にしたい企図を持っている、との忠告を様々な方から受けていました。 閑話休題。 この問題を記述すると、とても長くなりますので、省略します。 結論だけ述べますと。 この問題は、天理教の上部組織と私共との係争(民事裁判)から、天理教団トップをも巻 き込んだ騒動となり、4年間、不安と恐怖と落胆と奮励の日々が続きました。そうしたあ る日、私の縁から、この問題の解決に身をなげうって協力してくれる人が出てきて、結局、 「現在の土地を売却し、その売却金で双方、和解金・立退料を均等に分け合って納める」 という和解が、平成2年末に成立したのです。まさに奇跡の出来事でした。 そして、私たちは平成3年1月からそれぞれ長年住み慣れた目黒の地を出ていきました (建物は壊され、整地され、その跡にマンションが建てられています)。 私たち一家は、子供たちの小学校に通学可能な範囲にある、目黒不動尊や大鳥神社に近い 地域を物色。 時はバブル経済真っただ中で、どこも賃貸料は驚くほど高額。 それでも日当たりの良い閑静な場所に立つ、程よい値段の中古マンションを見つけて入居。 部屋がまたまた狭いので、子供たちは3段ベットに寝かせていました。 ここでの生活は1年間。 この間に色々な物件を探し回った結果、現在の世田谷区上馬の家を選択。平成3年4月か ら今日まで住んでいるのです。 この家に決める際、現地を廻り内覧した結果、他にも目黒区八雲や中目黒、そして杉並区 に良さそうな物件がありました。 そこで不動産屋のチラシを4枚持参し、以前から懇意にしていた、ある霊感(占星)師を 訪問。 この人は、4枚の間取りや住所などをかわるがわる見つめたあと、1枚のチラシをかざし、 「これがいいよ!神様が詰まっていて守ってくれるよ」とご託宣。 私は驚きました。確かにこの家は、私道を入り、突き当りの左側に位置していたからです。 チラシには地図や文言など一切掲載されていないのに、「この家は袋小路にある。神様が 詰まっている」とズバリ言い当てていたからです。 4件の中で一番小さな家で、現在の家です。敷地が25坪ほどで庭が狭いので、日当たり はイマイチ。 間取りは3LDK。 他の物件は綺麗で広く、昔の東宝映画に出てくる一流会社役員の家に似た、洒落たものば かりだったのに。 しかし、私はこれに決めました。物事はうわべだけではない。本当の価値は内にあると。 値段は他の物件の3分の2ほどでした。 その後、すぐにバブルが弾けました。 この上馬の家に引っ越してきてから26年。 三宿のアパート時代から43年。 この間に色々な出来事がありましたが、どんな小さな狭い住まいでも、雨露をしのげ、安 心して寝られる住居が与えられ来たので、しみじみと、幸せだったと思わざるを得ません。 あのアパート時代から、サルビアの花の可愛さ、綺麗さも変わらず。 今日も狭い庭先にひっそりと、さりげなく咲いて心を癒してくれるのです。 幸せなことです。 それでは良い週末を。 |