東井朝仁 随想録
「良い週末を」

            梅雨の日に考えたこと
梅雨に入り、鬱陶しい気候になってきました。
これからは、そぼ降る雨の日が続きますが、こんな時季は、室内でストレッチや筋トレを
したり、積読(つんどく)していた本を読んだり、雨に濡れないコースを辿って美味しい
レストランに行ったりするのに、絶好。
そして、特に私の場合は名曲喫茶などの喫茶店に行き、あれこれと夢想するのが好き。
そんなある日(6月7日)、渋谷の「名曲喫茶ライオン」に行き、バッハやシューベルトや
ブラームス等の曲を聴きながらとりとめもなく考えたことを、今回のエッセイで書いてみ
ます。
ちなみに、この喫茶店は1926年の創業で、6月に日替わりで演奏される作曲者・曲目が書か
れたプログラムには、「全館(各階)ステレオ音響完備(帝都随一を誇る)」との見出し
がついています(帝都!)。
ここの喫茶店には、私が22歳の頃から通っているのですが、相変わらず古色蒼然とした
店内の雰囲気にあって、まさに昔風に表現すれば、その「立体音響」の素晴らしさは、今
も変わっておりません。
さて、本題です。

現代の社会は、政治・行政・経済界における事実隠ぺい・ごまかし・幹部の無責任な態度
を反映してか、一般国民の間でも「自分本位」「虚偽」「不誠実」に走る人が多くなって
きたように感じます。
昔から、権力の腐敗は民心の無関心・無気力化を呼び、これらは社会が荒廃する前兆にな
っていましたが、今がまさにそれでしょう。多発する連続殺人事件や猟奇殺人事件、親に
よる幼子殺人事件をはじめ、普通の街角で普通の人が、普通の人に何の脈絡もなく殺され
る事件の続発。犯人の動機は「むしゃくしゃして、(殺す相手は)誰でもよかった」と。
また、私が最も社会の荒廃を感じるのは、巧妙な詐欺や横領の多発。
エリート・サラリーマンのような知能犯が、高齢者や弱者や、あるいは疑いの知らないお
人好しの市民をターゲットに、冷酷無比に金や資産をだまし取る事件は、日常茶飯事。
一億総スマホの時代、スマホをいじっていて、目についたアプリを開いただけで、後日
「有料アプリの代金が支払われておりません。このままですと裁判事になります。
今なら間に合いますから至急ご連絡ください」などとメールが入り、電話連絡すると延滞
金を含んだ料金が100万円などと脅され、気が動転して相手の言いなりに金を振り込んだり
する事例は、枚挙にいとまがない現代。
しかし、極悪非道な詐欺行為を行っても、「この格差社会で我々が生きるためには、金を
持っている奴から知恵を絞って金をとることなど、当然のこと。騙されたほうが悪い」と、
罪の意識が全くない連中が多いそうです(一度捕まっても、再犯する)。
だから、キャバクラやいかがわしい風俗店に勤め、スケベな男たちから法外な料金をとる
ことなど、その業界では昔から当たり前。最近はカネになるからと風俗嬢を目指す中・高
校生が、きゃぴきゃぴの私服に着替え、車中にもかかわらず厚化粧を施して、夜な夜な渋
谷などの繁華街を徘徊する風景などは当たり前の時代に。
つくづく「世の中は荒廃してきたな」と、痛感する昨今。
日本における社会規範とかモラルなどは、今や消滅しているのでしょう。
なぜなら、これらを人間の行為の基準として順守すべき大人の偉い人たちが、全く範を垂
れていないから。

卑近な例を挙げれば、スポーツ界。
相撲協会(力士の暴力事件)やレスリング協会(オリンピック強化コーチの伊調選手への
パワハラ事件)における事なかれ主義、隠ぺい体質は、氷山の一角のはず。
アメフトの強豪・日本大学における、「勝つためには何でもあり」の監督・コーチの非常
識な選手指導と、こうしたことを生む土壌を醸成してきた大学の体質も、今まで長年隠れ
ていた非民主的で独裁的で利益第一主義の経営体質が、ついに事件として露呈したまで。

「スポーツマン・シップ(正々堂々と、ルールにのっとり公明に勝負を争う、スポーツマ
ンにふさわしい態度)」などという言葉は、現代では既に死語なのでしょう。
「One for all、All for one(一人はみんなのために、みんなは一人のために」を合
言葉に、チーム一丸となって闘い、ノーサイド(試合終了)になったら、勝っても負けて
も双方のチームが相手の健闘を称え合う。
そうしたスポーツの世界の潔い爽やかさは、今や権力の座を利用した指導者層の専横と欲
得にゆがめられ、かき消されてしまっているようです。
情けない話です。

財務省の公文書改ざん問題も同様。
本省幹部の指示で、組織的に「決裁」が終了した公文書を改ざんしてしまい、その行為を
隠蔽し、そうした事実を知らぬ存ぜぬと白を切り続けた財務省の体質。
そこには、本省という官僚組織の、長年培われた「我々は国家権力の最重要組織である。
我々の行うことは全て正義だ」という傲慢性と独善性、排他性がにじみ出ています。
しかしこうしたことは、何も財務省だけに限ったことではなく、官僚主義(法律に基づく
文書主義の原則、強固なヒエラルヒー(上下の身分秩序)に基づく指示・命令系統など)
が貫徹した中央官庁のどこにでも、多かれ少なかれ存在している体質。
本省の局長級の幹部が部下の課長に指示し、課長が部下の職員へ指示し、さらに本省職員
が行政組織上の下位に当たる地方局や付属機関に指示する。
そして法令違反等の不祥事が露呈すると、最終現場の立場の弱い担当職員か、その上司ぐ
らいが詰め腹を切らされる羽目になって事(騒ぎ)が治められ、組織全体が何もなかった
かのように、再び傲然と権力を行使していくのです。
今回の財務省近畿地方財務局の担当職員が、本省からの命令と自己の一般的な常識とが相
克し、心の中で葛藤して悩んだ末に自殺に追い込まれた事例などは、まさに組織防衛優先
の冷徹な官僚制度の犠牲者とも言えます。
周囲は「気の毒に」と思いながらも、口をつぐむだけ。

国家公務員は、新規採用されて入省した段階で、国家公務員試験で取得した資格内容や学
歴(同じ資格でも出身校により、その後の人事で格差が出る)だけで、ほぼ将来の出世の
道筋、国家公務員としての身分(出自)が確定され、その身分が退職まで続くのです。
農民の子に生まれたら、一生身分が変えられない時代から、戦(いくさ)で功名を立てた
者は1国1城の主にさえなれた下剋上(実力主義)の時代を経て、現代では民間企業を例
に挙げるまでもなく、国際的に、階級の出自より本人の能力重視で登用される時代。
しかし、霞が関を頂点とした国家公務員社会は、今だ「士農工商」の封建社会が残存して
いるムラ、と言っていいでしょう。
組織の底辺に働く公務員が、採用時に烙印を押された、二度と消せない出自の上に、上司
の指示・命令にそぐわない態度をとったら、確実に「問題あり。下」の評価がなされ、そ
の後の役人人生の可能性が閉ざされることになるのは、明白。
だから、多くの国家公務員は「組織の掟」に背くことなく、個人の考えや個性を押し殺し
て上司の意向を忖度し、組織の歯車になって生きていくのです。

私は本省に入ってからすぐに、労働組合の役員会議で、「国家公務員制度に、せめて課長
昇級試験を導入すべき。まずはこのことから、ノンキャリアでも採用後の努力次第でキャ
リアと肩を並べられるポストまで昇進できる制度を導入すべき。このことで、多くの職員
の仕事へのモチベーションが上がり、ひいては組織全体の活性化と業務の質の向上が図ら
れ、これは省益にもなり、国民のためにもなること。こうした公務員制度改革を国家公務
員労組を挙げて人事院などに働きかけるべき」と主張しました。
しかし組合幹部全員から「職員間の競争を助長させるから駄目だ」と一蹴されました。
その後私は、組合の本省支部の情宣部長として、「文責・東井朝仁」の署名入りで、人事
制度改革と恒常的残業解消など、本省職員全体の労働条件改善に関する記事を機関紙に書
き、発行し続けていました(左遷OK。退職も辞さずで)。一時は、後に事務次官や局長に
なったキャリアをはじめ、少なくない数の技官も賛同してくれて、組合に加入してくれま
した。
だが。
今は厚生労働省の労働組合も消滅し、霞が関には旧態依然として、封建社会のような官僚
身分制度が残存しています。職員はヨコのつながり(連帯)は分断され、強固なタテの上
下関係が貫徹する巨大な官僚制組織の中で、多くの志のあるノンキャリアの意欲はスポイ
ルされ、やむを得ず、せめて最下級の幹部ポストに就けるよう、上層部の意向を忖度しな
がら、余計なことを言わずに追従し、黙々と働いている職員も少なくない現状なのです。   

政治の世界も、安倍首相のお友達などが政権中枢の権力の座を占め、官僚は首相官邸の顔
を伺い、忖度し、経済界もマスコミも自分達の既得権益のために、同じく政権の意向を忖
度し、政権与党の自民党内部では、1強の安倍総理に睨まれないよう忖度して、以前のよ
うな活発な政策議論をやめてしまい、、、、。
このようにみな、政治・行政・経済界・マスコミにおける「自己保身」の姿勢が、スポー
ツ界や教育界(注・教育委員会による虐め情報の隠蔽事件の、なんと多い昨今か!)をは
じめ、各方面でも現れていると言っていいでしょう。
私は、つくづくと思うのです。
「将来を担う若い人たちは、こうした偉い大人の人たちの隠蔽や嘘や責任のなさ、「エゴ
イズム」を、どう捉えているのだろうか」と。

こう書いてきて、大学の時に受講した「社会学」の教科書(著者・福武 直・東京大学教
授。有斐閣双書)を思い出して、取り出してみました。
そこのある段落を抜粋します。
「官僚制機構における人間の行動エネルギーの不完全燃焼は、人間の主体的な意欲や創意
工夫を抑圧し、自発的原理を踏みにじることによって、よりいっそう低い水準での同調行
動を全般化した結果に他ならない。自我実現の欲求をおさえつけられた人間は、自我の統
一を維持しようとして、マイナスの適応行動(昇進や辞職への異常な執着、攻撃・退行・
逃避への傾向、組織への忠誠や愛着の低下、仕事ではなく収入への狂奔など)に走る以上、
組織能率の阻害は不可避であろう」

「経済の領域だけではなく、政治の領域においても疎外された大衆は、強大な政治権力や
官僚制機構のまえに、まったく無力化し、この権力や機構にあやつられるにすぎない受動
的大衆に転化しつつ、体制内に編入され、政治的無関心におちいっていく。
頂点における権力の集中と支配力の拡大・深化と裏腹に進行する、底辺における無力でバ
ラバラな大衆の沈殿。
そこに現代社会の特色と問題性があるわけです」

まさに、いまの日本社会の現状を、50年前のこの本の著者は言い当てているようで、いさ
さかの戦慄を覚えました。

官僚制組織は、何も役所だけに限らず、大きな会社や団体の組織になれば生じます。
今日では、マイナンバーの国民背番号制に見られるように、国民すべてが国の監視・管理
下におかれ、また、とどまることを知らずに肥大化する情報のネットワークで、どんな匿
名の国民のプライバシーも丸裸にされるご時世。
鋭い監視・管理社会。
将来が不透明で、実体のない不安に満ちた今の社会において、老いも若きもますます個人
主義・自己防衛に走り、社会は国家主義(国家を人間社会の第一義的に考え、その権威と
意思とに絶対の優位を認める立場)に走る様相を呈してきています。
街を歩いていても、電車の中でも、店の中でも、今や国民全体がスマホに首ったけ。
これは、家庭でも学校でも職場でも地域でも、自我を抑圧されていたり、面白いことがな
い人々の持って行き場のない、鬱屈した気持ちの表れのような気がします。
そして他人と同じでないと疎外される不安も手伝い、誰もかれもが、スマホ依存の画一化
された行動に走るのでしょう。前述の論文で言えば、退行、逃避。
私にはそう思えるのです。

今回の米朝首脳会談の共同声明。
お互いに自国の利益さえ確保すれば、あとの国は知ったもんじゃないというようなトップ
同士。
これから、日本列島には大きな波が次々と襲来することでしょう。
果たして、日本の権力中枢の人たちは、どう出るか。
これ幸いに、スマホに衝撃的な情報を流し、国民全体の心を一方向に扇動して、一気に国
家主義・独裁政治を確立する蛮行だけは、やめてほしいものです。

「少し、先案じをし過ぎ」という声もあるかもしれません。
だけど「なるようにしかならない」と達観して笑い飛ばすことが、必ずしもプラス思考で
はないとも、思っているのです。
実体のない先行きの不安感におびえている暇はありません。
人生は一度。
残された時間が短いからこそ、最後の最後まで、日々、自分の考えだけはしっかりと持っ
ていたいもの。
それが「今を生きている」という実感を生むのです。

今回は少し冗長過ぎました。
クラッシック音楽を聴いていると、時間のたつのが早いのです。

それでは良い週末を。