想 い 出
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最近、御年85歳の作家・五木寛之氏が、次のようなことを述べていましたが、まさに同 感です。 「このところ昔の事をあれこれと思い出そうと努めている。回想という心の働きの大事さ を、つくづく感じるようになってきたからだ。(略) 年を重ねてくると、自然に体が不自由になってくる。80歳、90歳でもジョギングをす るような元気な老人もいるが、そういう人は例外だろう。体の節々が痛んだり、動作が不 自由になるのは、自然のことだ。 人生後半の季節に入っても、衰えることのない人間的な営みと言えば、回想に尽きる。 昔の事を思い出しては、それをじっくり味わう。長く生きた人は、思い出という資産を持 っている。それを豊かに生かすか、ホコリをかぶったまま枯れさせるかは、各人の姿勢で ある。 その資産を無駄に放置するか、有効に活用するかで、その人の人生の後半生が決まるだろ う」 私も以前から、「年老いて、思い出のない人生は不幸である」などと、外国の思想家の格 言を引用しながら、知ったようなことを言ってきましたが、最近ようやく、その言葉の深 い意味合いが、実感を伴ってわかる気がしています。 思い出とは、「過去にあった事柄で、深く心に残っていること」とか、「後々まで思い出 しても楽しくなること」といった意味。 私の場合は、喫茶店で一人憩っている時や寝床に着いた時などに、昔の色々な思い出を浮 かべてはニンマリしたり、胸をときめかせたり、しみじみと感慨にふけったりしています。 思い出は、時間・空間(場所)・状況・結果により、種々様々。そして思い出を構成する 最たるものは、何といっても人(相手)。 これらの要素の組み合わせで、思い出の入った引出しが、心の中にたくさんできるのです。 例えば、時は10代後半の高校時代、状況は文化サークル(地理歴史部)での活動、さらに 人は後輩の女性部員たち、として焦点を合わせると、部長の私と後輩たちとの楽しくも甘 酸っぱい部活の思い出が、次から次へと懐かしく脳裏に蘇ってくるのです。 今や、こうした想い出に耽るのは、毎日の貴重な「ルーチン」になっています。 毎回ほんの10分ぐらいの(30分以上のこともある)追憶ですが、何とも言えない満ち足 りた気分になります。 そして「人生の幸福とは、こういうことなんだろう」とも、思っているのです。 なかには「そんな過去のことを想い出すより、今日いまのことや、未来のことを考えて行 動するのが、前向きの生き方ではないのか」とか、「私は懐旧の情に浸っている暇はない。 色々とやりたいこと、やらねばならないことが山積している」などと言う人もいるでしょ う。 こういう人は死ぬまで「忙しい、忙しい」とあくせくして、日々をやり過ごしていくほう が性に合っているのでしょう。少なくともたまには立ち止まり、しばし自分の歩んできた 道を振り返り、あの日あの時の楽しかった出来事を想い出すなどという行為とは、無縁で しょう。 人それぞれ。 でも私は、正直な話「つまらない人だな・・」と思ってしまいますが。 人生は過去。過去が人生の全て。 「今」は瞬時にして過去になり、それが連綿と続いて人生となる。 明日という人生は無いのです。 なぜなら、まだ生きていないからです。 だから、「瞬時にして過去になる今」を味わい深く精一杯生きる。 それが悔いのない過去を作り、良き思い出となって現在に蘇ってくる。 私はそう思っています。 時々、その連綿と続いてきた過去を振り返り、そこに様々な喜びや感動や苦労の思い出が 懐かしく蘇る人は、まさに魂が生きている人、幸せな人と言えるでしょう。 私もそうありたいと願いながら、今日も寝しなの追憶を楽しむのです。 それでは良い週末を。 |