思 え ば 尊 し
|
先週の木曜日(8月2日)、長野県佐久市に行ってきました。 佐久総合病院の有志の方々が、私のために開いてくれた懇親会。 これに出席するためです。 病院側は、名誉院長、統括院長、医療センター院長をはじめ、私とゆかりのある総勢16名 の方々。 午後6時に始まった会は、美酒と旨い肴と楽しい話の3拍子で、ワルツのように軽快で愉 快な時間が過ぎ、気が付けば午後9時。 あっという間の3時間でした。 思えば、佐久総合病院とのご縁も、昭和57年から始まって今年で満36年目。私の今までの 人生の過半を占める歳月が流れました。 あっという間でした。 しかしこの間、佐久総合病院の病院長は若月先生、松島先生、清水先生、夏川先生、そし て現在の伊澤先生と5人替り、事務長も何人か分からないほど替わられました。 また、長年の懸案だった老朽化した病院の「再構築」、移転新築・建て替えなどの大事業 に着手。現在、最終段階に入っているのです。 一方、私個人も、発足間もない厚生省老人保健部老人保健課の保健指導係長の業務を通じ て、佐久総合病院とのご縁が生まれて以降、本省内の8つの課、政府系金融機関、東京検 疫所と異動し、様々な業務を担当。そして厚生労働省を56歳で退職し、これもご縁で三重 県津市に本部を構える「三重県厚生農業協同組合連合会」(三重県厚生連)の役員に転職。 さらに60歳を迎えた時に三重県厚生連を自主退職して、帰京。かねてから念願だった健康 酒の製造・販売を行う株式会社を設立。商売という未知の世界に身を投じ、8年間の会社 経営を行いました。そして2年前に会社を清算。これに替わって非営利型法人を設立し、 今日に至っているのです。 このように、佐久総合病院にも私個人にも様々なことがあった36年間。 そうした状況の変化、少なくとも私自身があちこちと異動しているにもかかわらず、どこ にいても変わらぬスタンスで対応し続けてくれた佐久総合病院。 この連綿と続く関係の糸となるのは、一つには昭和58年から毎夏行っている、厚生労働省 の野球クラブ「厚生ブルーバッカス」(注・私は名誉監督)と佐久総合病院との親善交流 試合。 厚生ブルーバッカスが佐久に行き(時には東京ドームや西武ドームで実施)、事務管理部 門チームと医局チームとの2試合を行った後、農村保健研修センターの大広間での懇親会 で、大いに飲み語り、双方の健闘を称え合うのが長年の恒例行事になっているのです(注 ・経費は双方応分の負担)。 話を戻して先週の懇親会では、先に挙げた病院の幹部クラスの方々をはじめ、懐かしき方 々と久闊を叙しました。 私が三重県厚生連の常務理事時代、傘下7病院の関係者を集めて社会福祉研究会(病院事 業における福祉事業の充実強化)の発足会を講堂で開催した際、遠路、車を飛ばして津市 まで講演に来てくれた、現在の看護部長。 国体2連覇という偉業を成し遂げた当時の野球部監督・優勝投手や主力選手。 厚生ブルーバッカスの佐久遠征の際、色々と尽力していただいている事務長や課長。 私が老人保健課にいたころから、我が国の老人保健施設事業のパイオニアとして活躍され てきた当時の施設長、等々。 私は、一種の感動を覚えながら、酒杯を空けていました。 感動は、佐久総合病院の幹部をはじめ、人が変われど誰もが、この30数年の間、一貫して 「ブレない」こと。 彼ら彼女らの心には、きっと、若月俊一先生が病院のスローガンに掲げていた「農民と共 に」の精神、言い換えれば「○○と共に」という、お互いに立て合って人を思いやるとい う気持が、脈々と流れているのでしょう。まさに、それが伝統となって病院一同の精神文 化を形成しているのでしょう。 今更ながら、そう痛感させられました。 私の人生の半分の期間、それも脂ののった壮年期の時代に佐久総合病院とのご縁が出来た ことは、有難いことでした。 「有縁 千里 来相会」(うえん せんり らいそうえ) 縁があれば、どんなに遠くても会うことが出来る、という意味。 「無縁 対面 不相逢」 縁がなければ、向かい合っていてさえも巡り逢えない、という対句が続きます。 不思議な縁で結ばれている人生。 夾竹桃の花や百日紅の花が咲き乱れる近くの公園を散策しながら、そんなことを考えてい た昨今。 「思えば尊し・・・佐久病院とのご縁」です。 それでは良い週末を。 |