読 書 の 秋 に
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秋たけなわです。 スポーツの秋、芸術の秋、味覚の秋、そして読書の秋。 私は味覚の秋だけは、果物のブドウ・栗・梨・柿を始め、秋刀魚、松茸、サツマイモ、カ ボチャ、そして甘味の栗饅頭・栗ぜんざい・栗モンブランなどを食べては、ニンマリと満 足していますが、他の3つはまだまだ。 スポーツは、2年前までは自分でプレイするものが好きでしたが、今はウオーキング程度 (それでも1日1万歩以上)。 芸術は、これも以前は話題の映画や演劇、そして絵画展などを観て回ったものですが、今 年はせいぜい自室でDVDを観賞する程度。ここ数年、映画館に入ったこともありません。 10月にDVDで観た作品は、テレビドラマの「石つぶて」(1〜8話)(主演・佐藤浩市)、 「北のカナリア」(吉永小百合)、「小早川家の秋」(原節子・司葉子)。 今までは多い月には20本ほどTSUTAYAから借りて観ていましたが、最近はせいぜい数本。 しかし「読書の秋」のほうは、、今までと変わらずにあれこれと熟読・精読・斜め読み・ 積読をしています。 ちなみに、この10月の1か月に読んだ本を幾つか紹介してみます。 勿論、ここでは書評が主旨ではありません。その本の印象に残った個所を、ほんのちょっ と書き記(しる)してみたいのです。 まずは向田邦子の「父の詫び状」)と「女の人差し指」(いずれも文春文庫)。 エッセイの達人である彼女の最高傑作といわれる「父の詫び状」は、昭和の東京山の手の 中流家庭の生活が情感深く見事に描かれている。 昭和20年3月10日、B29の空襲。 女学校3年生の彼女の家は、両親と弟と妹の5人家族。 驚いたのは、彼女たちが空襲を受けた家が、私が生まれて2年後の昭和24年、疎開先の 父の実家がある滋賀県から上京し、家族4人で(のちに8人までになる)住み始めた目黒 区下目黒の、いわゆる「元競馬場」(現在、府中に移転した東京競馬場の前身・目黒競馬 場の跡地)の近くにあったこと。 「我が家は目黒の祐天寺のそばだったが、すぐ目と鼻の蕎麦屋が焼夷弾の直撃で、一瞬に して燃え上がった。」 「私は四柱推命ででみると、駅馬という運がついている。これは、職業にしても運勢にし ても東奔西走、ひとつところに落ち着かず絶えず忙しがっている星だという。 元競馬場は、名の通り、以前競馬場のあったところである。目黒記念という名のついたレ ースは、ここからきているそうであるが、この競馬場あとを晴着を着て走って転んだのは、 幼にして、すでに駅馬のきざしがあったということであろう」 この記述だけで、私が2歳から43歳まで過ごした元競馬場の町がありありと思い浮かん でくる。 私が小学6年生頃までは、家の周囲にはまだまだ「原っぱ」が多く、そこで毎日夕暮れま で友達や地域の子らとゴムボールで野球をやっていたことなど。 昔から、向田邦子の原作で放映されたテレビドラマを見ていると、何となく見たことのあ るような家や商店や町だなと思っていたが、それは昭和の風景の同一性からだけではなく、 当時の山の手の新興住宅街の家庭を家のつくりから家庭生活の詳細まで、丁寧に描いてい るからだろう。これは、そこに住んだ者にしかわからない「匂い」の同一性があるから。 次は名女優だった高峰秀子の「にんげんのおへそ」(新潮文庫) 彼女は昭和を代表する名女優だったが、エッセイシストとしても一流。 他にも「人間住所録」など5冊、既に読了したが、どれも肩がこらずに歯切れのよい文章 で一気に読んでしまった。この「にんげんのおへそ」は、たしか高峰さんが書かれた最後 のエッセイ(平成24年発行)。彼女は平成22年の暮れに亡くなられている。 この13篇からなる「にんげんのおへそ」の最後の篇の題名は「死んでたまるか」。 「50を過ぎると月日のたつのが早く感じられる、というけれど、全くで、亭主の老化も 駆け足で進み、ますます出不精になった女房がのらりくらりとしているうちに、正月ばか りがせかせかと御用聞きみたいにやってくる。 私たちはようやく幕切れの近さを感じ始めた。 『具体的に、まず身辺整理からいくか』 という亭主の一言で、やっとエンジンがかかり、私たちはドッコイショと腰を上げた。」 こうして、夫は責任ある役職を二つ辞め、山積する蔵書を整理した。高峰さんは5歳から 50年間に及ぶ映画の脚本と、膨大なスチール写真の全てを、川喜多財団のフイルムセン ター資料館に寄付。ついで、家具調度から皿小鉢に至る物品を整理・廃棄。骨董品収集が 趣味の彼女は「物への執着は捨て、物にまつわる思い出だけを胸の底に積み重ねておこう」 と。 結局、家財道具は3分の1に。 3階建て9部屋ある家は壊し、終の棲家として3間(書斎・寝室・リビングキッチン)だ けのごく小さな家を建築。 すると。 「常日頃「65歳死亡説」をとなえていた亭主が、体力づくりと称してセッセとスポーツ ジムに通いだした。 『こんなにいい家が出来たのに、死んでたまるか!』 というのがその理由である。 『死ぬために生きる』のは、どっちに転んでも忙しいことですねえ」となる。 私は高峰秀子さんの見事な生き方に、うなりました。 そして最後は、太宰治の「ヴィヨンの妻」と「グッド・バイ」。いずれも新潮社文庫。 「ヴィヨンの妻」は昭和25年に初版発行。平成28年には第119刷に、「グッド・バ イ」は昭和47年発行。平成30年には76刷を数えています。この増刷記録をして、ど ちらも長い間、多くの読者に読まれてきた小説家であることがわかります。 これらが、何気なく地元の本屋の文庫本コーナーを見て歩いていたら、「没後70年記念 刊行」と名をうって、平積みされていました。20代の頃に「人間失格」と「斜陽」は読ん でいましたが、さして感興が湧かずに読み捨てていました。 それが、平積みの前でふっと中国人の王君の言葉を思い出したのです。 そして「これはまだ読んでいないはず。超久しぶりに太宰の本を読むか」となって、購入 した次第。 王君の言葉とは。 彼と親しくなったのは、8年前の六本木のマッサージ店。 私はその頃、六本木7丁目いわゆる通称名「乃木坂」の会社事務所に居て、昼食後などは ミッドタウンから六本木交差点界隈を散策していました。そのあたりは飲食・水商売の店 のほかに、やたらに「足裏」「指圧・マッサージ」の店が氾濫しており、私も2〜3店を 探索して足裏とマッサージ施術を受けて憩っていました。しかしどこも中国人従業員が多 く、イマイチつぼを外れた素人施術。お香をたいた中国的な内装をした部屋で、ジャスミ ン茶などを供され、癒し系の中国音楽のBGMが流れ、それなりの雰囲気だけが売りのよ うでした。 だがその中で、王君は日本語ペラペラで。経絡などを心得た施術をする中国人で、当時 29歳。(注・そもそも外国人従業員の誰一人として鍼灸・師圧・マッサージ師の国家資 格を有している者はいないはず。だから施術などとは言い難いが。日本人でも、殆どの店 は民間の講習を1週間ほど受けただけの無資格者のはず。保健所なども施術が禁止されて いる無資格者の摘発など、少ない担当職員で多くの店舗の抜き打ち調査など出来ないので しょう」 私はそれから、足裏・マッサージをする場合は、いつも王君を指名。そして施術中の1時 間、彼とうつらうつら話をしながら、身体を揉んでもらっていたのです。 彼は当時は独身。長男の一人っ子で、大連から来日し、2年間日本語学校に通い、それか ら足裏・マッサージの仕事の世界へ。休日に私が老舗の日本料理店に誘って、日本の正統 な会席料理で日本酒を酌み交わし、あるいは彼が池袋北口の中華街にある、主に在日中国 人相手の中華料理店でご馳走をしてくれ、日本の店のメニューにはない、デイープな料理 を食べながら歓談してきました。 そのうち、彼は独立してマッサージ店を経営するために店を退職。 しかし色々な地域と店舗を物色して駆け回ったが、良い物件がなく断念。しばらくして中 国系の食品関連企業に就職。ここで会社の指示で日本の食品衛生法に定められた「食品衛 生管理者」の国家資格を取得。 だがその後、会社経営がブラック的なところがあり、退職。 現在37歳の王君(日本名大井君)は同じ中国人の女性と結婚し、埼玉県の富士見市に家 を建てて日本に帰化。2児の父としてプラスチック加工会社に勤務。 そんな彼と知り合ってほどなくしたころ、「君は日本語の会話がうまいが、日本語の本は 読めるの?」と聞いたら、「本は大好きですよ。特に太宰治のが好きです」と言われ、私 は非常に驚いたものです。 日本の若者でも、太宰治の本を読んだことのない者が結構いると思われるのに、太宰治が 好きだとは。 それに引き換え、長年日本にいて読書が好きと自認している私が、太宰治の本に関しては 王君のほうが余程読んで知っているのかもしれない。これは今一度、太宰の本を読まなく てはと痛感した当時のことを、本屋の文庫本コーナーの前で、不意に思い出したのです。 その太宰が昭和20年8月15日(終戦)から、入水自殺した昭和23年6月13日まで の3年間に書かれた16篇の作品を収載した「グッド・バイ」。 その中の断章。 「関東地方一帯に珍しい大雪が降った。その日に、2・26事件というものが起こった。 私は、ムッとした。どうしようというんだ。何をしようというんだ。 実に不愉快であった。馬鹿野郎だと思った。激怒に似た気持であった。 プランがあるのか。組織があるのか。何も無かった。 狂人の発作に近かった。 組織のないテロリズムは、最も悪質の犯罪である。馬鹿とも何とも言いようがない。 このいい気な愚行のにおいが、所謂大東亜戦争の終わりまで漂っていた。 東条の背後に、何かあるのかと思ったら、格別のものもなかった。空っぽであった。 怪談に似ている。 (略) 中国との戦争はいつまでも長引く。たいていの人は、この戦争は無意味だと考えるように なった。転換。敵は米英という事になった。 (略) (国の)指導者は全部、無学であった。常識のレベルにさえ達していなかった。 しかし彼らは脅迫した。天皇の名を騙(かた)って脅迫した。私は天皇を好きである。 大好きである。しかし、一夜ひそかにその天皇を、お恨み申した事さえあった。 日本は無条件降伏をした。私はただ、恥ずかしかった。ものも言えないくらいに恥ずかし かった。 天皇の悪口を言うものが激増してきた。しかし、そうなって見ると私は、これまでどんな に深く天皇を愛してきたのかを知った。私は、保守派を友人たちに宣言した。 10歳の民主派、20歳の共産派、30歳の純粋派、40歳の保守派。そうして、やはり 歴史は繰り返すのであろうか。私は、歴史は繰り返してはならぬものだと思っている。 全く新しい思潮の台頭を待望する。それを言い出すには、何よりもまず、「勇気」を要す る。(以下略)」」(昭和21年3月「苦悩の年鑑」) 「自分を駄目だと思い得る人は、それだけでも既に尊敬するに足る人物である。 半可通は永遠に、しゃあしゃあ然たるものである。天才の誠実を誤り伝えるのは、この人 たちである。そうしてかえって、俗物の偽善に支持を与えるのはこの人たちである。 日本には、半可通ばかりうようよいて、国土を埋めたと言っても過言ではあるまい。 もっと気弱くなれ!偉いのはお前じゃないんだ!学問なんて、そんなものは捨てちまえ! おのれを愛するがごとく、汝の隣人を愛せよ。それでなければ、どうにもこうにもなりゃ しないのだよ」(昭和21年4月「15年間」) 「苦悩の年鑑」も「15年間」も、当時名のある作家でありながら、そして軍国主義者で も共産主義者でもない太宰が、世間の目(政治家やマスコミや転向左翼文化人など)から の批判を恐れず、よくぞここまで当時の世間状況を喝破したものだと、感心しました。 特に「15年間」の文章は、現在の政権に忖度しながら報道を続けるテレビ各社や、訳知 り顔でパフオーマンスだけの御用学者(政治も、社会問題も、健康問題さえも)にも当て はまること、と相槌を打ちたくなりました。 さて、今日(1日)から11月。 季節の色彩も空気も味覚も色濃くなってきた晩秋を、お互いに楽しみましょう。 それでは良い週末を。 |