師走に浮かぶ滋賀のこと
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先日の夜の風呂上りに、配偶者が見ていたテレビの画面を何気なく眺めると、滋賀県という 言葉が聞こえてきた。 「また、愚にもつかないバラエテイか・・」と部屋を出ようとしたとき、「滋賀県は全国ト ップクラスの長寿県・・」というキャスターの声に、条件反射して耳をそばだてた。 「滋賀県は、平均寿命が全国の都道府県で男性が1位、女性は4位・・・」と。 ふっと興味が湧き、振り返って画面を見つめると「その原因は、第一に喫煙率と塩分摂取量 の低さ。 かっては肺がんの罹患率が全国でワーストだったのが、大きく改善。 次に、多量の飲酒の機会が少ない。男性は全国で4位、女性は3位。 次に、スポーツをする人が多い。さらにボランテイアをする人が多い。 何より、県が健康増進活動に地道に取り組んできたことなどが、滋賀県を長寿県に押し上げ た要因と考えられる」 私は「なるほど」とうなずき、2階の自室に戻った。 念のためパソコンで調べると、長寿県たらしめた要因は、他にも生活環境の良さがあった。 それは、失業者の少なさ(全国2位)、労働時間の短さ(9位)、高齢単身者の少なさ(1 位)、所得の高さ(4位)など。 確か、数年前の何かの調査で、滋賀県は「住みやすい・住みたい県」の上位にランクされて いた記憶がある。 全国どこの市町村でも、行政が「誰もが住みたい、健康長寿の街づくり宣言」などといった スローガンを掲げているが、まさに首長の選挙公約をそのまま看板にして掲げ、空理空論の ところばかり。 その看板もペンキがはがれ、古色蒼然としているのが多い。 その点、滋賀県は昭和61年からコンピューターを駆使して、県民の健康関係のあらゆるデ ータを継続的に調査・分析し、3600名に上るボランテイアの健康推進員の活動を奨励し、 地域住民の健康増進活動に行政の力を注いできたのは、立派。 ただ、「健康寿命」がイマイチなのは気になる。 全国で男性は16位、女性は何と42位!(ちなみに長野県は、男性が18位、女性は16 位) 単なる「寿命」の長さだけではなく、介護や医療に依存しなくても、自立して元気に生きる ことが出来る、「健やかな寿命の延伸」こそ大事。 その様なことは、行政や関係者の人は先刻承知のことだろうが。 滋賀と聞いて私がTVに耳目を引かれたのは、「平均寿命」であろうが鮒ずしであろうが、 番組の内容は何でも良かったのだ。「滋賀県」の言葉に反応しただけ。 なぜか? それは、私の生まれた県だから。 だが、生まれた滋賀県甲賀郡水口町貴生川(現在の甲賀市)の地から、私が2歳の頃に東京 に戻って今日に至ったので、思い出らしいことは殆どない。 また、42歳の時に滋賀県から東京都目黒区の旧住所に、本籍地を変更した。 「私の故郷も現住所も、これからは東京」と、気分を一新した。 まさにこの時が、琵琶湖周航の歌ではないが形式的にも「♪滋賀の都よ、いざさらば・・・」 だった。 しかし最近、ふっと旧故郷のことを想い出すことがある。 それは本能なのだろうか。 特に、歌手の井上陽水の「少年時代」や、吉田拓郎の「夏休み」などを聴いている時に。 例えば、小学校の夏休みに帰郷(当時はそうだった)して、従弟(いとこ)と近くの野洲 (やす)川に泳ぎに行き、河原の石を積んで透明な水中を泳ぐアユを追い込んで捕まえたり、 大津の叔父の家に行き、家の前に広がる琵琶湖の岸壁から糸を垂らし、タナゴやモロコをバ ケツ一杯に釣って、夕食の際に甘辛く煮て食べたりしたことなど。 戦時中に、父親の家や親類があった水口町に一家が疎開し、終戦後2年たった昭和22年に 私は生まれたのだが、ほどなくして上京(東京大空襲で焼失した中野区の自宅に替わる住居 が見つかったので戻った。だから帰京とも言える)。したがって幼少の頃の記憶は殆どない。 だが長じてからの、記憶に残る思い出は幾つかある。 例えば。 私が厚生省で水道環境部長の秘書的な業務についていた頃、長浜市で全国の水道事業関係の 全国大会が開かれ、私は部長のお伴で出張した。 滋賀県に生まれながら、長浜市を訪れるのは初めてだった。 一言でいうと、まさに水と光に溢れた清い街という印象で、特にガラス工芸が盛んなことに 瞠目した。 大会の翌日は、大会関係者が観光客船を貸し切り、琵琶湖の最北の港から竹生島を経由し、 琵琶湖大橋をくぐって大津港まで、琵琶湖を北から南まで縦断した航海は、まさに爽快だっ た。 その長浜市には、その後に縁ができ、厚生省の我が野球部「ブルー・バッカス」で遠征試合 に赴いた。関西の軟式野球界でも強豪を誇る長浜市役所チームと2試合行い、見事に連敗し たが、試合後の懇親会では、市長ともども多いに親睦を深めることが出来、今でも忘れられ ない思い出になっている。 また、琵琶湖を挟んで長浜の対岸に位置する高島町(現在の高島市)には、創設なった骨髄 バンク推進事業のシンポジウムに招聘され、行政担当官として講演を行った。 シンポジウムでは、当時人気があったお笑いのハイヒール桃子さんらと、シンポジストとし て楽しい会話をさせた貰った。 しかし、何といっても忘れられない滋賀の思い出は、2001年9月11日のことだ。 いわゆる、「9・11同時多発テロ」が勃発した日。 私はその日、国民生活金融公庫の専門検査役として、優秀な部下と共に関西方面に出かけて いた。 公庫の業務委任をしている主な金融機関の現地監査を行うためだった。 当日は朝10時から三重県松阪市の「第三銀行」の監査、そして午後は本公庫の津支店を訪 問。夕方、滋賀県の水口町に入り、水口センチュリーホテルに泊まった。 翌日は「滋賀県信用組合」の監査と、本公庫の大津支店訪問。2日後、3日後も京都市内の 信用金庫の監査や本公庫の京都支店訪問等の業務があった。 監査初日の夜は、相棒と夕食をとりに街をそぞろ歩いた。 とても寂しい街並みで、「ここは俺が生まれた水口町なのだ」と思っても、全く実感も感動 もなかった。 夕食後、ホテルの部屋で風呂に入り、ちょうど午後10時だったので、TVの「NHKニュ ース10」を見た。 すぐにニュース・キャスターが、この日、台風が上陸しているにもかかわらず、トップニュ ースは 「たった今、ニューヨークの世界貿易センタービルに、飛行機が追突する事故が起こりまし た」と言い、ビルの北棟から黒煙が燃え上がる現状が中継された。 私は湯上りの姿で唖然として眺めていたら、ニュース開始して3分後に、キャスターの背後 の画面に映し出されている北棟ビルの隣のビル・南棟をめがけて、画面の右側から飛行機が 飛んできた。 そして激突して炎上した。 「何だこれは。映画か?」と凝視しているうちに、ビルは不気味なほど静かに大きな黒煙を 立ち上げた。 後刻、これがアメリカ国内で4か所同時に勃発した、飛行機を使ったテロ事件だとわかった。 この様な劇的なシーンには、滅多に遭遇するものではない。 だから、現在に至るまで世界のあちこちで勃発するテロ事件のニュースを聞くたび、「あの 同時多発テロが、今日の世界中でのテロ事件の走りだった。あれから世界はカオス(大混乱) の時代に入ったのだ」と思い知らされている。 それにしても、旧故郷の夜は寂しかった印象が残った。 勿論、亡父の家も今は無く、親類付き合いをするところもない。 私のところには、今でも滋賀県の広報紙が定期的に郵送されてくる。 その紙面を客観的に捉えても、滋賀県の行政には何かしら温かいもの、県民本位の姿勢を感 じる。 (特に女性職員・ボランテイアが頑張っているのでは、と想像する) その表れの一つが、滋賀県が1998年に大津市の湖岸に創設した「滋賀県立芸術劇場・び わ湖ホール」。 公益財団法人・びわ湖ホールが運営主体で、「びわ湖ホール声楽アンサンブル」というホー ル専属の声楽家集団を有し、オペラを中心とした様々な音楽を上演している。 私も、かって県の東京事務所に勤務していたK氏と知己を得てから、氏がこの財団の要職に ついた関係もあり、ホールが行う毎年の東京公演に招待され、素晴らしい舞台を満喫させて 貰ってきた。 このあたりのことは、本HPから、2013年7月18日付エッセイ「三文オペラ」を是非と もご笑覧頂ければ、意のあるところが伝わると思います。 もう滋賀県には本籍はありません。 しかし、私が生まれた土地であることは間違いない。 そう考えると、運命が与えてくれた母なる県と思えてきます。 今から考えると、小学生の頃の夏休みの思い出と、その後の滋賀県とのささやかでも貴重な 御縁は、終生忘れることがないでしょう。 ありがとう、滋賀県。 それでは良い週末を。 |