東井朝仁 随想録
「良い週末を」

二 人 の 先 生(1)
先週の金曜日(1月11日)、(一社)東井悠友林の主催で「高久先生の米寿を祝う新年会」
を開催した。
高久先生とは、前・日本医学会会長の高久史麿氏のこと。当法人の顧問で、色々とお世話に
なっている。
そこで会員が集い、「イチバン、イイヒ」でもあり「大安吉日」でもあり、「花金」でもあ
り、何より高久先生の誕生日である2月11日の丁度1か月前にあたる、この1月11日に
開催した次第。
従って、満年齢ではまだ87歳であるが、この様な慶事は数え年で行うほうが吝(やぶさ)
かではない。
目黒駅前の高層ビルに開店して間もない中華料理店の、個室を3部屋開放しての会場は、遠
方から来られた方や仕事を終えて駆けつけた方などで埋まり、新年のスタートとなる催しに
相応しく、和やかで楽しいものとなった。
私は、温かい紹興酒を飲みながら、ふくよかに沸き上がる感慨に心を酔わせていた。

高久先生に初めてお目にかかったのは、1992年(平成4年)の春。私が44歳の時。
私は4月の人事で、「骨髄バンク推進事業及びガン予防事業」の担当課長補佐に異動したば
かりだった。
まだ片付かない机の中の書類や文房具を整理していると、健康的に日焼けした顔の男性が、
机で埋まった狭い課内の通路を早足で歩いて近づいてきた。そして私の机の前に来たので、
私は「誰だろう?」と立ち上がると、「どうぞ、そのままで」と笑顔で制し、「高久です。
これから骨髄バンクのご指導を、よろしくお願いします。色々とご相談させてください」と
手短に挨拶された。
渡された名刺には「財団法人・骨髄移植推進財団・副理事長」とあった。
私は咄嗟に事情を理解し、出来たての名刺を手渡して、「こちらこそ、よろしくお願いしま
す」と礼をした。
氏は、終始一貫笑顔を絶やさないまま、周囲の職員にも軽く頭を下げながら、またも足早に
退室していかれた。
私は、隣の課長補佐に聞いて、氏が少し前に東京大学の医学部長を退官され、今は国立病院
医療センター(現・国立国際研究センター)の院長をされていることを、初めて知った。
そして「何て気取らない、腰の低い人だろう」と感心した。
役所でも民間でも、少し偉くなると尊大ぶる人が多いことに辟易としていたので、私は新鮮
な感動を受けた。
この時から、氏との付き合いが始まった。

国が主導し、日本赤十字社や地方公共団体等の協力のもとに、骨髄移植推進財団としては
@パンフレット・ビデオの作成配付等の普及啓発
Aコーデイネート・マニュアルの作成
Bコーデイネーターや広報・相談員の養成
C骨髄移植・採取医療機関の指定
D日本赤十字社・ドナー登録の受付・データバンク機関である地方血液センターとの調整
Eボランテイア団体との連携などが急務であった。
財団は、いわゆる日本初の公的骨髄バンク(注・白血病等の血液難病患者に、化学療法を施
しながらドナー(骨髄液提供者)の骨髄液を注入(移植)し、健全な造血幹細胞を再生させ
る骨髄移植。この治療法を推進するために不可欠なのが、ドナー登録者の確保・拡大)。
白血病等の患者さんをはじめ、多くの国民がその進捗に期待を抱き、マスコミも連日のよう
に、関係ニュースを流していた。
従って国としては、スタートしたばかりの公的骨髄バンクの体制整備が、喫緊の課題であり、
私も必死にならざるを得なかった。
具体的には、会計課への説明、大蔵省への多額の予算要求、各種補助金・研究費の交付、政
府広報を始めとした普及啓発事業の展開、コーデイネート・マニュアルの監修、骨髄バンク
事業実施要綱の策定、全国都道府県主管課長会議やブロック会議等の開催、調査研究事業の
推進、そして財団の指導・監督等々。

財団では、企画委員会、広報委員会、調整委員会があり、それらが頻繁に開催された。
特に企画委員会では高久先生が委員長として、懸案事項や今後の方針等を審議していたが、
私も常時出席し、国としての意見や助言や回答を行っていた。
しかし毎回、どれもこれもが難しい課題ばかりであったが、座長である高久先生は要点・勘
所を押さえ、最終意見を私に問いて、「それでは、そのようにいたしましょう」と手早くま
とめてくれたり、私(厚生省となるが)が種々お願いや指示をすると、私の意見を最大限尊
重して実施してくれた。
今、思い起こすと、あの時に高久先生がおられなかったら、そして極めて傲慢な言い方にな
るが、私が担当でなかったら、日本の公的骨髄バンクが軌道に乗るのは相当に遅れ、また、
国会における応援議論やマスコミの積極的な報道による、あれほどの骨髄バンクに関する盛
り上がりはなかった、と確信しているのである。

あれから27年目の春が来る。
高久先生は米寿を迎え、私は70の大台に乗った。
そして、私は色々なことを知った。そして人生における縁のおりなす喜びを得た。

高久先生は、私の印象では「あいうえお」の人。
「あせらない、いばらない、うろたえない、えがお(笑顔)をたやさない、おこらない」
私も、そんな人間になりたいと、つくづく思った米寿を祝う会だった。
先生の益々のご健勝とご活躍を祈るばかりである。