東井朝仁 随想録
「良い週末を」

二 人 の 先 生(2)
先の11日(金)の夜のこと。
ほのかな紹興酒の酔い心地を楽しみながら、私は田園都市線に乗っていた。
前回のエッセイで述べた「高久先生の米寿を祝う新年会」が、夜の八時半過ぎに終了してか
らの帰路だった。
車内は、新年会の余韻を楽しむのに十分なほど、心地よい温かさに満ちていた。
誰もがスマホを見ているか目を閉じており、車内は静かだった。
私も、目を閉じて電車に揺られながら、一つの行事が無事に終了した満足感に浸っていた。
幸福だった。
その時である。
ポケットのスマホが振動した。
発信者は、私の母校・奈良県私立天理高校時代の級友・M君だった。
彼が地元の天理市の自宅からかけてきたのだ。
私は素早く小声で「電車だから、5分後にかけなおす」と伝え、次の駒沢大学駅で降車し、
車の喧騒が激しい国道246沿いの帰路を離れ、一本裏の住宅街の暗い道を歩きながら電話
をした。
M君は、高校2年の時のM組の担任であった、恩師・今村俊三先生が、この日の午後2時に
お亡くなりになったこと、告別式が14日の午後1時から行われることを、まず手短に伝え
てくれた。
私は、今まで身体中を熱く循環していた血液が、一気に冷めていくような脱力感に襲われて、
立ち止まった。夜風は冷たく、周囲は寂しいほど森閑としていた。

今村先生は昨年10月に米寿の誕生日を迎えることとなり、このため昨年9月13日に2年
M組のクラス会を開催し、先生をご招待してお祝いのクラス会を開催したばかりだった。こ
の日、参加した級友は男女合わせて12名。54年目の「24の瞳」だった。
卒業後10回近いクラス会を奈良市や天理市で開催してきたが、毎回、年齢を感じさせない
元気なお姿で、性格そのままの穏やかで含蓄のある話をされ、おいしそうに日本酒の杯を運
ばれていた。だが今回は違った。会場にお見えになった時は、M君に身体を支えられてきた
ご様子に、大変驚かされた。昨年の暑中見舞いの葉書や、クラス会のご案内に対する返信に
は、年初から心疾患で入・退院を余儀なくされていることが書かれており、体調が思わしく
ないことは承知していたが。
しかし、着座して会が始まると、青白かった顔がお元気になり、穏やかな口調にも力がみな
ぎってきて、実に楽し気な笑顔を終始浮かべておられた。酒も美味しそうに杯を空けられて
いた。
そして会もたけなわ、終焉の時が来て「2年後の先生の卒寿を祝うクラス会で、皆な元気で
また会いましょう!」と言って閉会した時、何とも言えない嬉しそうな笑顔を見せてくれた
のだが・・・。

実は昨年末から、「その後の今村先生のご様子はどうだろうか?」と妙に胸騒ぎがしていた。
何度か先生に電話しようと考えたが、あまり直接的な話だと失礼な気がして、躊躇していた。
そこで地元のM君に先生の状況を、さりげなく調べて教えてほしいと電話で依頼していたが、
特別な情報はなく新年を迎えた。
そんな年初めのM君からの電話だった。
私は一度身体を伸ばして呼吸を整えてから、再びM君の話を聞いた。
死因は肺炎とのこと。この1月2日にインフルエンザにかかり、奈良市内の自宅から天理市
内にある(公財)天理よろず相談所病院に緊急入院されたとのこと。肺炎を併発したが徐々
に容態は回復し、10日には、私共と同学年だった女性のKさんが見舞った際はお元気で、
高校時代の2年M組の思い出話や、昨秋の9月13日に開催した先生の米寿を祝うクラス会
のことを嬉しそうに話されていたとのことだった。その際、私のこともKさんに語っていた
とのことだった。
それが、翌11日の午後に容態が急変し、お亡くなりになった。
Kさんは前日の話から、先生がご逝去されてすぐに元M組の人に連絡をと考え、唯一連絡先
がわかる高校時代の友人のSさんに電話をした。福岡にいるSさんは地元天理にいるM君に
連絡し、それからM君が私を含めて数人の級友に連絡をしているところだった(今思い返す
と、Kさんが先生の病床に行かなかったら、55年前の1年間担任しただけのクラスの者に
は、到底、関係者からの訃報は届かなかったと思う。これも何かの計らいだと感じた)
私は、M君の話を黙って頷きながら聞いていた。そして連絡の礼を言い「告別式に行くよ。
考えてみれば、先生は大往生だったな。良かったよ・・・・」と自分に言い聞かせるように
言って、電話を切った。
その瞬間、今まで心身を支えていてくれた「何か」が、すっぽりと抜けて無くなったような
虚脱感を覚えた。
だが、星空を見上げながら大きく深呼吸をし、凍てつく夜道をそろそろと帰った。

1月14日は、品川駅から早朝の新幹線で京都に出て、近鉄を乗り換えしながら天理に向か
った。
丁度待ち合わせの正午前に着き、同級生数人とM君の車で告別式場まで行った。
大勢の参列者で、広い会場は一杯だった。
特に今村先生は、天理教教会本部の役員として教団の重鎮だったので、関係方面からの参列
者も多かった。
私達、当時の級友6名も椅子に座り、厳かな雅楽演奏(実演)が流れる中、先生の在りし日
の穏やかに微笑んでおられる遺影を眺めつつ、葬儀の進捗を見守っていた。
そして、親類の方の玉串奉献が済み、次に本部役員、所属教会関係者、建設会社などの方々
が、それぞれのグループの代表の方の玉串奉献に合わせて、その場で立拝をされていった。
最後に、「一般の方」と司会進行者のマイクが響き、Kさんと私の名前が呼ばれ、私はKさ
んと並んで祭壇の前に立った。
本来なら、そこで遺影に対し2礼・4拍・1礼・4拍・1礼をするのだが、玉串を捧げてか
ら、私は自分でも信じられない不可思議な思いが身体中にこみ上げ、ためらうことなく遺影
に向かって「今村先生、今まで長い間、本当にありがとうございました」と大きな声でお別
れの言葉を発していた。そして何事もなかったかのように、横のKさんと歩調を合わせ、2
礼・4拍・・をして席に戻った。
思えば30年前、東井の家と天理教団(厳密には、組織的に私共の上級の大教会)とで、4
年間にわたる係争が奇跡的に和解し、私達はそれを機に上級教会から除籍処分を受け、教団
組織を離れた。係争が勃発した直後、私は理不尽な教団(大教会)の対応に対し、東京から
天理まで出向き、予約もなく教団のナンバー2に面会を申し入れて直訴したことがあった。
この方は、親切に真剣に私の話を聞いてくれた。
この時以降、この係争は広く教団幹部に知れ渡るところとなった。
この時の社会的常識に満ちたナンバー2の方は、今はおられない。
その代わり、当時は比較的若かった方々が、今は幹部・役員となって列席していた。
年配の彼らの多くは「東井」の名前を久しぶりに耳にしたのだろうが、その瞬間何を考えた
かは知る由もない。

今村先生が教員として教壇に立ち、クラスの担任になられたのは、1964年度(昭和39
年度)の1年限りだった。
時は、東京オリンピック開催の年。日本中がオリンピックと高度経済成長の活気に満ちてい
た。
我々団塊の世代が全国の高等学校に溢れたが、天理高校の2学年も16クラスあり、1クラ
スに約50名、学年だけでも約800名も在籍していた。
その中で2年M組は、良い仲間ばかりだった。そのクラス担任だった今村先生は大阪大学薬
学部を卒業後、初めて「化学」の教諭として教壇に立たれたのだった。そして翌年度に教団
の他の要職に就かれた。
(ちなみに、今村先生は大学時代に野球をやっておられたが、バッテリーを組んだ相手は、
厚生省のN技官(後に厚生省の薬剤師として、初めて薬務局審議官になられた)。私が25
歳の時、厚生省本省に新設されたばかりの家庭用品安全対策室でご一緒し、N室長補佐と飲
みに行った際に、初めて知った)

私達M組の仲間は、先生のお宅を何度か訪問し、すき焼きなどの夕食をご馳走になって歓談
した。
木造の古い建物で部屋は狭く、つつましやかな生活に見えたが、「穏やかで、理知的」な先
生の性格そのままに、温かな家庭の雰囲気に満ちていた。私たちが談笑している部屋の脇で、
奥様が2歳ほどのお子さんの面倒をみていた。
2年後の私達が卒業した春、御次男が生まれた。そのお子様は、今は関西棋院の囲碁将士で、
元NHK囲碁講座の講師などを務めた今村俊也九段。関西では著名である。

今村先生が1年間の教員生活を終え、私達も3年に進級する昭和40年の春。それぞれ別れ
別れになる学年末最後の授業の時、先生はクラスの皆に、コピーしたB4の紙を配布した。
見ると、リルケの「星の友情」の詩だった。
「この一年、君たちは良い仲間だった。お互いに信じあえる友だった。これから先は、それ
ぞれが異なる道を進み、二度と会えなくなるかもしれない。お互いに敵対することになるか
もしれない。これからの人生と言う宇宙に大きな楕円曲線を描き、いつかその楕円曲線が交
叉して喜び合える時が来るかもしれない。
だが、いかなる時でも今までの友情を信じ、元気に進まれることを期待しています」
そのような主旨のことを、先生は言われた。

あれから今年で55年。
長いご縁だった。
今年の元旦に先生から届いた賀状の添え書き。
「2年M組の同窓会、忘れられない思い出になりました。
またお会いできると、うれしいですね。」
仰げば尊し、我が師の恩・・・。
二人の先生との、喜びと寂しさがあった正月でした。

それでは良い週末を。