如月に想う(1)
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今は2月、異称で如月(きさらぎ)。 まさに衣更着(きさらぎ)で、服を更に一枚重ね着して寒さを防ぐ季節。 先の3連休の頃の寒さは、気象庁曰く「観測史上、最大の寒気団の襲来によるもの」 とのこと。 去年の夏は、各地で「30年、いや50年に一度の猛暑」などと、猛暑日が続出しましたが、 この冬になればなるで、「こんな厳寒は、生まれて初めてだ」と、先日も北海道民の老人が TVインタビューで語っていました。最早日本は春夏秋冬を問わず、異常気象が常態化して きたようです。 以下余談。 (しかし、NHKを始め各局の気象予報士の予報もワイドショー化して、以前ならどうという ことのない気象も、過剰な表現で騒ぎ立てる傾向にあるのでは。 天気予報番組への注目(視聴率)を上げるために、異常気象を人為的に作り建てている部分 もあるように感じます。 先日9日の天気予報も、何日も前から「史上最大の寒気団が襲来する。関東平野部でも大雪 に警戒を」と警鐘を打ち鳴らし、前夜のニュースでは、「停電、路面凍結、交通のマヒ」な どに厳重に注意するよう、気象予報士が興奮気味に喋っていた。 そして当日。NHKテレビでは、朝から台風上陸や大震災発生の時のように、画面の左と下 の部分に大雪情報のスペースが設けられ、「都内23区で5センチの積雪の見込み」とかの テロップが流れていた。 私は一瞬、どこかで大震災でも発生したのか?と驚いた。 そしてすぐに「たかだか雪が降ることで、これほど騒ぐのか?」と最近のマスコミのセンセ ーショナルな報道に疑問を抱いた。 実際は風花が舞う程度の降雪があり、それも昼前までに上がり、どうという事はなかった。 ことほど左様に、最近の天気予報は毎回大袈裟すぎる。また、「画面では曇マークとなって いますが、その裏に傘マークがあると思ってください」とか、「明日はおおむね晴れるでし ょう。が、、、」と言ってから、思わせぶりに「ところによりにわか雨があるかもしれませ ん。念のために折り畳み傘を持って出かけられると良いでしょう」という具合に、必ず自分 (自局)の予報に含みを持たせて保険を掛ける。 それぞれのTV局のそれぞれの気象予報士が特色を出すのはいいが、視聴者は判断に迷ってし まう。 「傘マークがあるなら、雲のマークの上に小さく表示したら?」と言いたくなる。 私は、気象予報士はいらない。気象庁が出す予報をアナウンサーが尾ひれを付けずに正しく 読めば良い。そう思っているのですが) さて、それでも自然の輪廻はまだ根本的には狂っていないようで、今年も梅の花がちらほら と咲き始めました。 心が和みます。 そして次の事も、今や2月の風物詩。 私は毎朝、地元の駅周辺の喫茶店で珈琲を飲んでいるのですが、先日、駒沢大学駅前の喫茶 「ドトール」で感じたこと。 それは、1月末までは1,2階の広い店内は朝から受験生とおぼしき若者で埋め尽くされて いました。 誰もが一心不乱に参考書の要点をノートに筆記して勉強しているのです。 それが2月になった途端、彼ら彼女らの姿は一斉に消え、店内がのどかなほど閑散としてい るのです。 試験シーズンが始まったからです。 私は熱めの珈琲を一口ずつ飲みながら、「なるほど・・・」と感心することしきり。 季節の節目にいることに気づかされました。 こうした現象も、いつしか早春の歳時記になりました。 2月は28日まで。1月より3日も短いので、まさに「逃げる」ように去っていく感じがし ます。 受験生だけではなく国民の多くも、この厳寒の不安定な暗さが漂う時季を、早く抜け出した い気分にあるのではないでしょうか。 そうした時節柄、2月は何となく影が薄い月です。希更希でしょうか。 私自身も、過去を振り返ってみると、12か月の中で一番印象が残っていないのが2月。 それでもこの早春の時季、別れと出会いの本格的な春を待つ時期、何かしらの懐かしい思い 出があるのに気づきます。 例えば、今から15年ほど前の春をズームアップしてみますと。 これは2002年2月22日付の「良い週末を」で、「お堀の鴨も心地よく」と題して書い たエッセイの冒頭文。 「ここ数日、暖かな日和が続いています。お蔭で例年よりだいぶ早くスギ花粉が飛散してい るようで、花粉症の私は、クシャミと目のかゆみ、喉のヒリヒリ感に悩まされています。 それでも暖かいことは結構なことで、もうすぐ皇居のお堀端の青い柳が芽吹くと思うだけで、 心が弾んできます。 今日は2002年2月22日。2という数字を見つめていると、昼休みに散策する平川門の お堀の鴨を思い出し、5羽の鴨が仲良く泳いでいるさまがイメージできます。先ほど会議が 終って席に戻り、卓上時計を見ると、何と午後2時22分!(以下省略)」 この頃は、大手町にある国民生活金融公庫(現在の日本政策金融公庫)の本店に勤務してい ました。(2001年4月〜2003年3月)それで、昼休みはしばしばお堀端を散策して いたのです。 政策金融といえど、まさに民間企業的な雰囲気の職場で、今から思うと貴重な経験でした。 そしてその翌年の4月には、厚生労働省東京検疫所に異動。 大手町からお台場へ。 検疫所は初めてというより、省の付属機関に異動するのは初めて。 現場の大変な業務を肌で感じることができました。 特に、輸入食品の監視・検査・指導業務では、始業時の8時半前から多くの食品衛生監視員 がパソコンに向かい、おびただしい業務に夜遅くまで取り組んでいました。 職員は皆、疲労困憊の毎日。 更に、外国からの感染症侵入阻止の水際作戦である、空港や港湾での検疫業務も大変でした。 この年は、SARS(中国広東省を起源とした重症急性呼吸器症候群)が発生し、本所は、千葉 や川崎や羽田国際空港などの支所と連携して防護・搬送・消毒訓練を行うなど、検疫体制の 強化に明け暮れていました。 私も検疫官の官服と帽子に身を固め、検疫艇に乗り、沖に停泊中の巨大な外国貨物船の臨船 検疫を行ったことがありましたが、海上の船舶の甲板から降ろされたタラップは中途まで。 そこから検疫艇まではジャコップ(縄梯子)が投げ降ろされ、その揺れるジャコップを登っ て乗船するまでは 無我夢中でした。 検疫官は少ない人数で日夜、東京港湾や羽田国際空港でこうした業務を行っていました。 輸入食品の衛生監視業務とともに、現場の国家公務員の地道で粘り強い努力に感心させられ ました。 そんなこんなの1年が過ぎようとしていた翌年(2004年)の2月。 今でも2,3年前の事のように、鮮やかに浮かんでくる2月4日の立春の日。 この日、私は午前10時半に衆議院の第1議員会館に出向き、坂口厚生労働大臣の部屋を訪 れました。 前日に大臣の第一秘書から「会館までご足労頂けますか」と電話があったのです。 部屋に入ると、秘書の方が大臣の席に座りながら「坂口は国会に行っているので、失礼させ ていただきますが」と立ち上がって自己紹介され、隣の年配の方を「三重県の厚生農業協同 組合連合会の会長さんです」と紹介されました。お二人とも私は初対面でしたが、それまで に何回か電話で話しているので、細かい事情は必要ありませんでした。私はお二人と名刺を 交換。 すると、はるばる三重から上京されてきた高齢の会長が「東井先生、なにとぞよろしくお願 いいたします」と頭を下げられました。続いて秘書が「この件は、坂口大臣も承知されてお り、くれぐれもよろしくとのことです」と補足されました。 私は、前夜に腹を決めていたので、きっぱりと「了解いたしました。よろしくお願いします」 と返答。 会長は「ありがとうございます」とほっとした表情で、初めて笑顔を見せられました。 これで、私がこの3月31日に厚生労働省を退職し、4月1日から三重県厚生連の常務理事 に就任することが内定。 翌日、私は本省に出向き、人事担当官に退職の意向を伝えたのです。 担当官は4月1日付の局内の人事異動案を策定済みだったので、青天の霹靂という驚いた表 情で慰留の説得をされたが、私の決意が変わることがないと理解し、了解してくれました。 私は彼に「ご迷惑をかけますが、よろしく」と礼を言い、本省を後にしました。 以上のような退職・転職の話は、突然に降ってわいて即断したわけではなく、実はその前年 からの伏線があったのです。 56歳で迎えた春でした。 そのあたりは次回にでも。 それでは良い週末を。 |