東井朝仁 随想録
「良い週末を」

如月に想う(2)
2月、如月は冬のピークで、春は名ばかり。
1年中で一番印象の薄い季節。
そんな2004年2月4日の立春の日。
私は衆議院の議員会館で、坂口厚生労働大臣の部屋を訪れ、三重県厚生農業協同組合連合
会(三重県厚生連)の常務理事への招へいを承諾しました。思えば、厚生労働省を早期退
職し、未知の病院統括業務、未知の地域、未知の職場、人生初めての単身赴任生活に飛び
込む、まさに既存の環境を全て払拭しての心機一転の決断でした。
しかし、ここに至るには、前年からの経緯があったのです。

それは2003年5月。
かっての上司であり、当時は三重県にある保健医療系大学の学長で、三重県厚生連の経営
管理委員会(県下16か所の農業協同組合長及び学識経験者からなる、厚生連理事会のお
目付け役的な存在)の委員をされていたS氏が、突然上京され、当時、東京検疫所次長だ
った私を訪れてこらたのです。
用件は「三重県厚生連の常務理事になってもらいたい。現在3人の常勤理事体制で県内の
傘下7病院の統括的指導を行っているが、理事長が来春に退任され、理事ポストが一つ空
く。しかし、プロパーには適任者が育っていない。また、この際外部から新しい血を入れ、
新しい風を起こしてもらいたいという強い要望があり、その人材確保を私が委ねられた。
そこでピンと東井さんを思い出し、すぐに飛んできた」とのこと。

私は昔からSさんが好きで、信頼していた厚労省の先輩(医系技官)だったが、さすがに
突然の申し出に戸惑い、「わざわざ三重まで行くんですか?どなたか他におられるんでは
ないですか」と切り返した。
そして、昼休み前だったので、モノレール{ゆりかもめ}で新橋に出て寿司屋に入り、ビ
ールを飲みながら話の続きと久々の雑談を楽しんだ。
心中では「全くその意思は無い」と考えていたが、折角上京されたので「一応考えておき
ます」と答えておいて別れたのです。

話はその3年前の2000年、私が52歳の頃の事に。
私は当時、地域保健健康増進栄養課の総括補佐として、「健康日本21計画」(国民の健
康づくり運動の一大推進計画)にかかわっており、市町村や関係団体や新聞社などが主催
する各種講演会の講師として、各地に出向いていた。
特に埼玉県には、市町村や保健所や地域団体が主催する講演会に、何度も出席した。
そうしたことから、地元の方々とも懇意になり、講演後の懇親会などでさらに話の花を咲
かせていた。
そうしたある日、H市の有力者のAさんと県内の有力者のBさんのお二人から「上京して
いるから帝国ホテルで食事しましょう」との電話が入り、夕食をご一緒した。
ビールを一杯飲んで会食が始まるやいなや、「東井さん、今度のH市の市長選にでない?
現職の市長は勇退するそうだから、無投票で当選確実ですよ。もし他の人が立候補しても
大丈夫。支援団体がついているから」と。
私はH市の見事なホールで講演をしたことがあったが、参加された多くの皆さんは、私の
拙い話を熱心に聞き、一寸したジョークでも爆笑が湧くので、とても喋りがいのある講演
会で、さらに市の街並みも綺麗でのどかで好感が持てる市だった。
私は40を過ぎたころから、ちらちらと「政治家をしてみたい。それも国会議員や都議・
区議ではなく、一国一城の主である市長に」という妄想を描いていた。
でも、その縁がなく行政の面白さに没頭しながら、50を過ぎていたのです。
そうした思いがあったから「それは面白い。やってみたいな」と、その場で即答していま
した。
だが、その2週間後。
私はお二人の誘いで川越市に出かけ、ある料理屋で会食をした。
話は、「高齢だから引退すると言っていた現市長が、突然、もう1期やると。
そうなるとこうした地域では、よそからの候補より地元の候補を応援する。
選挙すれば当選の可能性もあるが、金もかかり、禍根を残す。したがって、もう1期待っ
たほうが良い」とのことだった。
その後、飯能市の料理屋で、お二方と共に飯能市長も同席し、他の適切な市などの情報交
換などを行ったが、結論は出なかった。
私は、内心半分は落胆していたが、半分はホッとしてる自分に気が付いた。
そしてその後、「こうしたことは、本人の強い願望より、流れや運、縁が大きい」と考え
た。それが生まれてこないのは、私には不向きだということだ、と悟るようになった。

他にも、50歳を過ぎたころから「事務長でも何でも肩書は結構だが、うちの病院に来て
手伝ってもらえないか。週に何日かでもよいから」などという誘いはあったが、自分には
病院の経験は無いし、やりたいという意欲も湧いてこず、やんわりお断りをしたこともあ
った。
しかし内心では、「第一線で仕事をバリバリこなして充実感を持てるのは、55歳ぐらい
まで。せいぜい60歳ぐらいまでだろう」と考えいた矢先の55歳の夏、Sさんに返答を
していなかった件で、三重県厚生連の理事長が突然上京。
私と厚労省の近くのレストランでお会いした。
理事長は「是非、来ていただきたい。組織は旧態依然としている。外の空気を入れなくて
は、発展は無いので、是非お越しください」と嘆願された。そして「結論は駄目でも結構
ですから、一度、三重県津市の本部においでいただけないか」と言われた。
その秋、私は56歳になった。
何か期するところがあり、12月上旬に津に向かった。
理事長から三重県厚生連の業務概要、常務理事としての任務・待遇などの説明があった。
JA三重には、厚生連のほか、共済事業や信用(融資)事業や経済事業を行う連合会のほ
か、それらを調整する中央会という組織などがあった。
驚いたことに、これらJAグループで、これまでに役員としての役所からの天下り(?)
人事や出向人事は全くなく、純血主義だったこと。
そうした慣例を破って、私ごときの者を反対意見も少なくない厳しい状況の中で、あえて
無謀に(?)、招へいしようとしている理事長の斬新な勇気ある心意気に、私は心を打た
れた。
そして「こちらから頼み込んで行くのではなく、請われて行くうちが男の花だ」と瞬時に
思い、内諾の意を伝えてすぐに帰京した。

そして開けて2004年。
正月に、経営管路委員会の副会長から、電話があった。
よろしくとのことだった。
それから、前回書いた2004年2月4日に至り、その後、3月15日に本部へ行き、さ
らに3月29日の経営管理委員会で理事選任の件が承認されたすぐ後に、私から挨拶を述
べるという事で、津市に向かった。
会場に入り、多くの委員・関係者を前に、私は「一人はみんなのために、みんなは一人の
ためにの協同組合精神に基づき、誠心誠意頑張りたいと思います」と挨拶をした。
それまでの間に、津市内の自宅で老夫婦で生活していた義父が、3月10日に93歳で亡
くなった。私は津市に再度向かい、11日・12日の通夜・告別式に参列した。
これは後日知ったことだが、傘下病院の中核である松坂中央病院や鈴鹿中央病院の院長は、
三重大学医学部の教授だった義父の教え子と知り、この時、運命の「ご縁」を痛感した。

60歳になった年の暮れに、私は三重厚生連の常務理事を退任した(翌年6月での任期満
了に伴う再選もあったが、就任時から60で退任することを決めていた)。
帰京して2か月後の2月、以前から描いていた株式会社を設立し、新たな人生をスタート
させた。

2月、如月。
想い出すと、如月は人生の色々な節目の時でもありました。
「節から芽が出る」 2003年2月4日の正式受諾。
その節目の日から激しい動きがあって、2か月後の4月上旬。
部課長クラスの職員が開いてくれた歓迎会の二次会に向かう途中の公園。
大きな満開の桜の木が、夜風に揺れて花びらを散らしていました。
私は皆を誘い、桜の木の下に集まって写真を撮った。
「いま、節から芽が出て、花が咲いたのか・・・」
今でも、当時のその写真を見ると、胸が熱くなるのです。

それでは良い週末を。