東井朝仁 随想録
「良い週末を」

駿 河 台 か ら
先日、超久しぶりに「駿河台」に行ってきました。
駿河台とは、地図の表記では明治大学や山の上ホテルがある「千代田区神田駿河台1丁目」
あたりに集約されますが、私がここで用いている駿河台は、地下鉄「神保町駅」を出て、靖
国通り沿いに数多く並ぶ古本屋街(神田神保町)を通りながら東に歩き、駿河台下にある書
籍店の大手・三省堂までの区間と、そこから左折して明大通りの緩やかな坂を上り、JR御
茶ノ水駅までの区間。
イメージ的には、さらに駿河台下から靖国通りをそのまま進むと、スポーツ店が数多く軒を
並べていますが(地図の表記では神田小川町)、そのあたりも入ります。

駿河台に行くのは、何年ぶりでしょうか。
思い出せるのは、17年前、私が大手町にある国民衛生金融公庫に在籍していた頃、昼休み
を利用して2〜3回、古本を買いに行ったこと。
15年前、私が厚生労働省を退職する寸前の2004年2月に、駿河台下のビルに事務所を
構えていた「日本ウオーキング協会」の副会長(専務理事だったか?)Kさんと、事務所近
くの料理屋で飲んだこと(注・2004年2月20日付「21回目の辞令交付」をご覧くだ
さい)。
今回はそれ以来の探訪です。

街をぶらつきながら感じたことは、古本屋やスポーツ店の多さは変わっていませんでしたが、
カレー店やラーメン店がやたらに増えたこと。そして中国漢字とハングル表記の店が増えた
こと。それ以外では、駿河台下からJR御茶ノ水駅までの通り沿いは、ビルの建替えや個人
商店の撤去で、高層ビルが増えたこと。
特に、今週のHPの表紙写真にあるように、いつの間にか(とっくにだろうが)明治大学や
日本大学の校舎が高層ビル化して、どこかのオフイスビルの様な景観を呈していたこと。
私はてっきり、昔の明治大学の校門がそこにあり、門をくぐってキャンパスでも覗いていこ
うと思ったのですが、そんな雰囲気が無く、写真を撮っただけで引き返し、スポーツ店が並
ぶ通りに出て、簡易テントとゴルフ用具を物色したのです。

ここで話を絞ります。
私は何となく、以前から明治大学には親近感を感じていました。
特に今年の正月は、全国大学ラグビー選手権大会の決勝で、私の母校・天理高校の兄的存在
の天理大学が明治大学と闘ったことで、その感が増しました。
最近の大学ラグビーは、帝京大学の一人勝ちの状況でしたが、それを天理大学が撃破。しか
し、伝統校・明治大学に惜しくも敗れ、全国優勝は叶いませんでした。
私が小学生の頃、目黒の家の二階に、大きな男の人が何人も集まり、すき焼きをしてビール
を飲みながら大きな声で歓談することが、しばしばありました。
当時、奈良県にある天理高校のラグビー部長や県のラグビー協会の役員などを務めていた叔
父が、上京しては我が家で日本代表チームの選手、日本大学や明治大学の選手、明治大学ラ
グビー部の名将・北島監督の息子さんなどと宴席をはって、飲食を振舞って歓談していまし
た。
特に1922年に創部された明治大学のラグビー部は、創部者が天理中学のOBでしたので、
ラグビー界でのそうした付き合いが深まっていたのでしょう。
さらに。
私が小学生から中学生の頃、私の両親が相談相手になって面倒を見ていたA夫妻が、世田谷
区八幡山にある明大ラグビー部の合宿所の賄い管理人として住み込んでいました。
父がAさん夫妻を訪問するとき、私も父についていったことがありましたが、今でも、ラグ
ビー場の脇に建てられた木造の宿舎の横の広場に、いくつもの大きな鉄アレイが転がってい
たのが印象に残っています。

さらに明治大学に親近感を感じることが。
やはり私が目黒に住んでいた頃。家の近く、大きな家並みが続く中の1軒家。そこが明大柔
道部の宿舎だったのです。
いつも朝や夕方、私の家の前の通りを十数名の柔道着を着た大きな男たちが、裸足でランニ
ングしていました。
その中に、1964年の東京オリンピックの柔道・無差別級の決勝で、オランダのヘーシン
クと闘い、全国民の悲願もむなしく敗れた、あの明治大学出身の神永昭夫氏もおられたので
しょう。
余談ですが、その神永氏を破ったヘーシンクは、大会前の長期間、天理に滞在し、天理大学
の柔道場で練習に励んでいました。
私も、地方の街の商店街を、大きな体で自転車に乗って走っている彼の姿を何回か見ました
が、その時は「大きな外人だな」としか思っていなかったのです。

以上はラグビーと柔道関連の明治大学のこと。
もう一つの駿河台・明大に関する思い出。
それは、私が24〜5歳の頃、45年前のこと。
初夏の梅雨入り前の夕方、私は厚生省統計調査部(当時は市ヶ谷にあった)の後輩のBさん
に付き合って、お茶の水に出て、駅前の「舟」という喫茶店でダベっていました。
彼女は明治大学の夜間部に通学していましたが、この日は2時限目からの授業。
それまでの間、お喋りをしようということで。「舟」は、当時流行っていたフオークソング
「学生街の喫茶店」の舞台ではないかと言われていた(喫茶店「レモン」ではないかという
人もいた)通り、大きく張られたガラス窓の外にプラタナスの並木が広がり、ジュークボッ
クスから、色々なフオークソングが流れていて、気分も明るくなる店でした。
それから、そろそろと明大に向かったが、まだ時間に余裕があるので、大学裏手にある、錦
華公園近くの商店街を散策し、
「こんなところに!」と驚くや、1軒のパチンコ屋に彼女を誘ったのです。
「君はまだパチンコをやったことがないと言っていたけど、100円だけやってみようよ。
すぐに終わるよ」と促して。
すると、すぐにジャラジャラとあたり玉が出始め、当時では珍しい、玉が入りやすいように
花弁が左右に開くチューリップという仕掛けに当たり続け、あっという間に玉の受け皿は満
杯に。
そこでプラスチックの大きな玉入れ容器に詰め替え、「もうそろそろ授業に」との彼女の声
で、やむなくストップ。
急いで交換台へ。「全部、チョコレートに!」と店員に伝え、チョコレートが詰まった大き
な紙袋を彼女に渡して、校門のところで別れたのです。
その当時のパチンコ屋は「人生劇場」。
今回、そのあたりを散策しましたが、当然のことながら影も形もなし。

私は「山の上ホテル」のレストランに行き、ミックスサンドを食べながら、ビールの中瓶を
1本飲み、それから 「一眞(かずま)珈琲店」で、モンブランのケーキでストレート珈琲
を飲んでから、駿河台を後にしたのです。
その豊かな時空の間に、一瞬、Aさんのことを想い出しました。
Aさんは大学を卒業すると、ほどなくして退職しました。
私は今でも、彼女がどこに再就職したのかがわかりませんが、きっと小学校の先生になられ
たのでは・・・と推察しているのです。
それが一番、良い想い出になるのだと思うので、実のところを知りたいとは思いません。
今度、駿河台に行くときは、神保町の洋食屋「ランチョン」で生ビールを飲むことに。
また新たな想い出が浮かぶかもしれません。

と書いてきて、肝心なことに触れていないのに気づきました。
なぜテントとゴルフのスポーツ店に行ったのか?ということを。
そのあたりは次の機会にでも。

それでは良い週末を。