東井朝仁 随想録
「良い週末を」

あの頃あの歌すきな歌(1)
私が「音楽」が好きなことは、この欄でも今までしばしば触れてきたところです。
音楽と言っても、そんな高尚なジャンルのものではなく、ポピュラー・ソング。
学校唱歌や歌謡曲やフオーク、ニュー・ミュージック。ジャズならせいぜいビル・エヴァン
スなどの著名なジャズ奏者の曲。
特に、普段の生活の中で聴いたり、口ずさんだり、カラオケで歌ったりする「歌」が好き。

私の今までの生活において、とても大切なもの。なくてはならないもの。
それを一つ挙げるとしたら、、、、。
「歌」はまぎれもなく、その一つのツールと断言できます。

人生で大切なものは衣・食・住。それを賄うカネ。カネを得るための仕事。仕事を行う知識
や技術や体力。それを習得するための教育や文化。それらが保障される地域社会や国の制度
並びに国内外の平和と安全。
さらに、これらすべての主体となるべき個人の心身の健康。そしてその人の人生を彩る家族、
親族、友人、恩師、同胞等。
「大切なもの」は、その人の年齢・生活環境・意識などにより価値観が様々に異なり、また、
それを名詞で一言で表現するとしたら、愛などと抽象的・精神的な言葉や、カネや職業など
と具体的な言葉を含めて千差万別。
しかし、人生の様々なステージにおいて、どの時どの環境においても共通している「生きて
いく」上での最も大切なこと=根源は、私は「生きる希望」だと思っています。
人間は生まれた時から、家柄や身分や貧富や能力・体力の格差を負って生きていく宿命にあ
ります。
しかし、金持ちの家に生まれて何の不自由もなく育てられた子供が、すくすくと成長して立
派な人になって経済的にも家庭的にも幸福になるかと言うと、そうとは限りません。「希望」
を持てずに勝手気ままな自堕落な生活に陥り、一生を棒に振る人もいます。反対に、貧乏な
子だくさんの家庭に生まれ育った子供でも、いつも「希望」を抱いて前向きに生き、「身を
立て名を上げ」一代で大企業家として成功を収めた人もいます。
あるいは人生の途中で言い知れぬ絶望や苦労のどん底に陥った人でも、その苦境の中から
「希望」を見出し、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)した果てに、歓喜溢れる幸福な人生をつ
かみ取る人もいます。
そうした身の回りの人や、日本や世界の人たちの例を出すとしたら、枚挙にいとまがありま
せん。
「希望」とは、やはり希望のこと。広辞苑では「あることを成就させようと願い望むこと。
将来に良いことを期待する気持」とあります。
「希望」は大切。希望のない人の人生は、文字通り希望が無い日々の連続でしょう。
あこがれも生き甲斐もなく、ただ毎日、無目的に生きるために働き、そして生きるために食
べて寝るを繰り返し、徐々に老いて病気になり、この世を去っていくのでしょう。
そうした生き方も、本人からすれば「別に不満はない」「みんな、そんなもんでしょ」と諦
観した言い方をするでしょうが、私から見たら「生きる喜び」が感じられません。
たった一度の人生なのに。
でも、余計なお世話ですから、最近は「そうした無感動で、無作為な国民が増えてきた。生
きるのに精一杯で、今更、夢だ希望だなどとは、露ほども思わないのだろうな」と、私は黙
視しているだけです。

それでは、その「希望」はどこから生まれるのか。どうしたら持てるのか?
私にとっては、その一つの動機づけが「歌」なのです。
歌を聴いたり、歌ったりする中で、今までどれほど勇気づけられ、励まされ、喜びの心が生
まれたことか。
だから、「人生の意義は希望を持って、喜び勇んで生きること。そうした気持がくじけそう
になった時、人生航路に迷って希望を失った時、孤独で心が震える時、あるいは希望に向か
って更に前進しようと心を勇ませたい時、私は歌を聴く。歌を歌う。これが第一」と思って
いるのです。

私が生まれて初めて「歌」を歌った時。
それは1952年(昭和27年)の夏。4歳と10か月の頃。
それまで歌というものは、親がかけていたラジオ放送からたまに流れてくる、大人の歌しか
聞いたことがありませんでした。「♪あかいリンゴに・・・」とかの歌が、しばしば流れて
きて、「これ何?」と母に聞くと「リンゴの歌というのよ。♪あかいリンゴに唇よせて、だ
まってみている青い空・・大きくなったらわかるわよ」と、台所で洗い物をしながら、軽く
口ずさんで教えてくれました。
当時は、今みたく保育園や幼稚園に通ったり、NHKテレビの子供向け番組など観る機会も
なく(そもそもテレビがない)、歌を歌うなどということは未知の世界。
勿論、まだ生まれて4年半ほどしかたっていないのですから。
それが、前述したように1952年の夏に、歌ったのです。
その歌は、後に「日本を代表する歌謡界の女王」と言われ、1989年に52歳で亡くなっ
た、国民的歌手・女優の美空ひばり(1937年(昭和12年)生まれ)の歌、「あの丘超
えて」(1951年)。

「あの丘超えて」は同名映画の主題歌で、映画では当時14歳のひばりは、大学生の鶴田浩
二にほのかな恋心を抱く少女役で出演(昨年、DVDで観ました)。
12歳で歌手デビューした美空ひばりは、「悲しき口笛」(1949年)や「東京キッド」
(1950年)などの歌を歌い、どれもが敗戦直後の日本社会に希望と喜びを与えて大ヒッ
ト。「天才少女歌手」と謳われていました。
そんな事情は、後年知ったのですが、当時は歌手の名前も歌も何もかも知る由がありません。
ただ、「あの丘超えて」の歌は、1952年の我が家の茶の間のラジオから、頻繁に流れて
いました。
それで私も、子供心に興味を覚えて、母や兄と同様に耳を澄ませていたのです。
そして、夏休みのある夕暮れ時、7歳の兄と一緒に、開け放たれた茶の間の腰高窓の縁に頬
杖をつき、400坪近い広い庭いっぱいに植えられた、目の前のトウモロコシ畑を眺めてい
ました。(HPの「表紙の写真集」か ら「昭和27年頃の目黒の家」をご覧ください)
背丈が高くなったトウモロコシの群れが、夕風に吹かれてさわさわと揺れています。それを
二人してぼんやり眺めていると、突然、兄がラジオから流れてくる歌に合わせて、歌い始め
たのです。

「♪山の牧場の 夕暮れに
  雁(とり)が飛んでる ただ一羽
  私もひとり ただひとり
  馬(あお)の背中に 目をさまし
  ヤッホー ヤッホー」(作詞・菊田一夫、作曲・万城目正)

私は、歌詞など何も知りませんでしたが、メロデイだけは何となく知っていたので、兄と同
じように歌おうとするのですが、何も歌詞が出てきません。
しかし、この歌は4番まであり、最後の「ヤッホー ヤッホー」だけは4番通して同じなこ
とは知っていたので、そこだけでも声を出そうと、歌の流れに必死に耳を傾け、最後の所で
「ヤッホー」と声を出すのですが、1番も2番も失敗。出だしが遅れて間に合わないのです。
そして3番目。
「♪山の湖 白樺の
  影が揺らめく 静けさよ
  私はひとり ただひとり
  恋しい人の名を呼んで
  ヤッホー ヤッホー」
ここでようやく、美空ひばりの歌と兄の声と同じになり、やはり4番も最後の「ヤッホー」
だけは気持ちよく合わせることが出来たのです。
何か、晴れ晴れとした気分になったことを、今でも覚えています。
ヤッホーだけでしたが、これが私が生まれて初めて歌った、人生で最初の歌でした。

この歌は勿論、私のスマホに登録してある200曲の歌の中でも、大切な1曲としてしばし
ば喫茶店で聴き入っているのです。
それにしても、菊田一夫の清涼で憂いを含んだ詩が、軽快で淀みのない万城目正の作曲とあ
いまって、この歌はまさに敗戦の混乱から立ち上がろうとした人々に、希望の灯をともした
と言っても過言ではないでしょう。
私が高校時代、寄宿舎の夜の部屋でゲルマニウムラジオのイヤホーンを耳に当てて「深夜歌
謡番組」を聴いていた時、DJ(デイスクジョッキー)が、こんなことを喋っていました。
「青森のA子さんからのリクエストをご紹介しましょう。
私は朝から晩まで畑仕事と家事をしています。辛いことも悲しいこともあります。でもそん
な時、美空ひばりさんの歌を聴くと、元気が湧いてくるのです。ひばりさんの歌は私にとっ
て宝です。大好きなリンゴ追分の歌をお願いします。
そうですか。A子さん、今は青森もしばれるでしょうね。身体に気を付けて、頑張ってくだ
さいね。それではお送りしましょう。美空ひばりさんのリンゴ追分」
ラジオしかなかった当時、こうした音楽のリクエスト番組が盛んでした。
そして、どの局の歌番組でも、将来に希望を託した若者のリクエストで、青春が息づいてい
ました。
その時の、寄宿舎の火の気のない一室で、深夜1時のラジオから流れる歌を聴きながら勉強
をしていた、痩せて目をぎらつかせていた少年は、50年たった今でも、スマホのイヤホー
ンを耳に当てながら「ヤッホー ヤッホー」を聴いて、胸をときめかせているのです。
歌は希望です。

それでは良い週末を。