あの頃あの歌すきな歌(2)
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振り返って考えると、私が小・中学生の義務教育の頃(昭和29年〜37年)は、今でもす ぐに思い出すような好きな歌というのは、ありませんでした。 勿論、児童期・少年期のガキの頃なので、大人の歌には全く関心も興味もなく、さらにそれ らを聴く機会もなく、歌と言ったら音楽の授業で習う歌、学校唱歌に限られていました。 「春の小川」「おぼろ月夜」「夏は来ぬ」「我は海の子」「浜辺の歌」「故郷の空」「赤と んぼ」「冬の星座」等、四季折々の歌を、木造校舎の教室で、音楽担当の女先生のオルガン 伴奏で歌っていたのです。 当時は「歌を聴いたり歌ったりする」習慣が未だなく、巷に流れる歌謡曲などは子供が歌う 歌ではないという雰囲気が社会にありました。それに比べ、学校で習う唱歌は音楽の勉強で あり、覚えて歌うこと、演奏することが目的であったので、さらに幼稚園に行かなかった私 は、童謡や学校唱歌などは殆ど未知の世界でしたので、授業で習う初めての唱歌は、前述の 歌を含めてどれもが新鮮で、音楽の授業はとても楽しみでした。 週に一回の授業。何曲かをクラス全員で合唱した後、先生が生徒の何人かを指名して独唱さ せるのですが、何となく私に当てられる頻度が高かったようで、「良く当てられて歌ってた な」という想い出は、今でも強く残っています。しかし、皆の前で歌うことは好きだったの で、苦ではなかったのです。 前回、生まれて初めて歌ったことを書きましたが、小学生になってからは、こうした音楽の 授業で何回も歌う機会が生まれました。オルガンの奏でるメロデイーにのって、自分の口一 つで声色(こわいろ)を出し、低い音から高い音まで、声を張り上げて晴れ晴れしく歌う気 分は、何物にも代えがたい快感であり、そして上手く歌い終えた達成感は、それまで知り得 なかった幸福感となって、小さな心を満たしてくれるのでした。 音楽の授業では色々な学校唱歌を習いました。歌を歌うだけではなく、先生が弾いた曲が何 拍子かを答えさせたり、木琴やトライアングル、ハーモニカの演奏をしたり、時には、モー ツァルト・シューベルト・ベートーベン・バッハ・シューマン・チャイコフスキー・ドヴォ ルザークなどのクラッシックのレコードを蓄音機でかけて聴いたりと、今考えても、すごく 多彩な授業だったような気がし、今更ながら担当の女先生の熱意のこもった授業を受けられ たことを、本当に有難く思うのです。 だから私は、今日まで「音楽をエンジョイできる人生」を送ってこられたのでしょう。(小 さい頃の教育は、特に教師の良し悪しは、その人の一生を左右してしまうと断言できます。 勿論、本人の受け止め方もあるで しょうが) そうした良き先生に恵まれた小学校6年間。 数十と習った様々な歌。その中であえて一つだけ「好きな歌・想い出の歌」を選ぶとしたら。 それは、アメリカの歌曲でフォスターが作曲した「故郷(こきょう)の人々」(あるいは 「スワニー川」とも)になるでしょうか。 この歌は、日本の唱歌と比べて、プラタナスの並木をそよがせる風のような、あるいは青い 草原を爽やかにわたる風のような、モダンで悠然とした優し気なメロデイ。訳詞は硬い表現 の部分もありますが、それでも何となく、子供心に郷愁を呼ぶ哀感が感じられました。 第一、なめらかに朗々と歌いやすいのです。 授業で習った音符は、今でもそらんじていて「♪ミーレド、ミレド、ド(高)ーラド(高) ー、ソーミ・ド・ レー・・・」。 「♪遥かなるスワニー川 その下(しも) なつかしの彼方よ 我がふるさと 旅空のあこがれ 果てなく 思い出(い)ずふるさと 父母(ちちはは)います 長き年月(としつき)旅にあれば おお 疲れし我が胸 父母(ふぼ)を慕(した)うよ」 あの良き想い出が残った学び舎・目黒区立不動小学校は、今はどうなっているのだろうか。 あの誠実でえこひいきをしない、誰にも優しいクラス担当の女先生は、もうお亡くなりにな ったのだろうか。 今から思い起こすと、今までの人生の中で一番「友人・親友」に恵まれて過ごした時期。生 涯忘れられない良き仲間たちは、今も元気だろうか。 この歌を聴くと、今も鮮やかに当時の頃のことが浮かんでくるのです。 そして時代は、ようやく終戦後の混乱と貧困を脱却し、1956年(昭和31年)の経済白 書では「もはや戦後ではない」と書かれたように、1950年代後半ごろから、日本経済は 目を見張る勢いで成長していったのです。 しかし、だからといって現在のように、テレビやCDやパソコンやスマホなどの情報機器が 氾濫するような、あるいはあらゆる電化製品が普及し、あらゆる食べ物が食べきれないほど 溢れているような「物質への欲求が尽き果ててしまったような社会」ではありませんでした。 テレビなどはまだまだ先の話。丸い卓袱台(ちゃぶだい)を一家が囲んでの夕食。 古い箪笥の上に乗ったラジオから流れてくるニュースや落語、歌謡曲などを聴きながら、コ ロッケや秋刀魚の塩焼きなどをおかずとしたご飯の夕食をとるのが、一般家庭の実情でした。 そして私が中学生の頃(昭和35年〜37年)。 この時期に歌に触れたのは小学生の頃と同じで、音楽の授業と家のラジオ放送から聞こえて くる歌声だけ。 ラジオからは、三橋美智也や春日八郎、美空ひばりや島倉千代子などの大人の歌謡曲が聞こ えてきました。 それでも、1956年(昭和31年)頃からは、石原裕次郎とか小林旭などの若手映画俳優 が颯爽と登場し、「嵐を呼ぶ男」とか「ギターを持った渡り鳥」などの主演映画の同名主題 歌を歌い、社会に新しい若者文化が胎動し始めている予感が漂い始めていました。でも、当 時の私は彼らの名前や顔は繁華街に貼ってあるポスターや、時折ラジオから流れてくる歌で 知る程度。人気絶頂のスターの映画や歌と言えども、こちらは子供で、まだまだ別の世界の こととしか感じられませんでした(長じて、カラオケが出現してからは、彼らの歌ばかり歌 うようになりましたが)。 中学校の3年間は、私にとって暗い思い出しかありません。 中学2年になったばかりの春に、新聞配達の途中で交通事故に遭い、大怪我で1か月入院し、 退院した後も体調不良を抱えながら再び早朝の新聞配達を行い、授業中は居眠りばかり。小 学4年生から中学1年まで常にクラスの上位だった成績は一気に下がり、友達は少なくなり (私の気持が離れていったのです)、家に帰ると母はおらず(体調を崩して入・退院を繰り 返していた)5人兄弟の次男だった私は、奈良の天理高校に行っている長男の代役として、 妹と一緒に家の掃除や食事の支度や洗濯などに追われた毎日でした。 家の近くに、人気絶頂だったクレージーキャッツの植木等の家があり、その隣に住む小学校 時代の友達の家に遊びに行くと、門前でばったり植木等に会うこともありました。彼は黙っ て真面目な顔で軽く会釈をして出かけて行ったのですが、その後姿を見ながら「お呼びじゃ ない?こりゃまた、失礼しました!」などと、当時の「シャボン玉ホリデー」という伝説の バラエテイ歌番組の中で、植木等が毎回演じるコントのセリフを真似た日もありましたが、 いつも心の中は空しく沈んでいました。 だが、中学3年になった1962年(昭和37年)、他のクラス・メートと同様に高校受験 の勉強を開始したものの、やはり気持は落ち込んだままの、つまらない日々を送っていたの ですが、ある日「はっ!」とする出来事が生まれたのです。 学校から帰ってくると、家には妹も弟二人も居らず、しんと静まり返った茶の間で何気なく ラジオをかけると(この年もまだテレビは無し)、今までに聞いたことのない若い歌声が流 れてきました。 それは、当時デビューして間もない、若手歌手の橋幸夫と女優の吉永小百合のデュエット曲 「いつでも夢を」(佐伯孝夫・作詞、吉田正・作曲)でした。 「♪星よりひそかに 雨よりやさしく あの娘(こ)は いつも歌ってる 声が聞こえる さみしい胸に 涙に濡れた この胸に 言っているいる お持ちなさいな いつでも夢を いつでも夢を 星よりひそかに 雨よりやさしく あの娘は いつも歌ってる 言っているいる お持ちなさいな いつでも夢を いつでも夢を はかない涙を うれしい涙に あの娘は変える 歌声で」 私は歌詞の一言一言が、私の胸に突き刺さってくる思いで聴いていました。 「そうだ。夢を持たなくては。夢を持って頑張らなくては。やるんだ。やるんだよ!」 私は目が覚めたように心の中でそう叫び、するとそれまで身体全体を覆い包んでいたモヤモ ヤが、スッと消えていき、何か希望の様な力が身体の底から湧いてくるのを、その場にじっ と佇みながら感じていました。 それから、自分でも人が変わったように感じるほど気持に張りが生まれ、高校生と言う新た なステージに向かって、迷うことなく一直線に歩いて行ったのです。 歌は力です。 それでは良い週末を。 |