11月10日の青空に想う(1)
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11月10日(日)は、天皇・皇后両陛下の即位を祝うパレード(祝賀御列の儀)が行われ た。 私は、午後3時からNHKTVを観ていた。 本当は、青山1丁目交差点の角に立つホンダ本社ビルの隣にある、マンションビルに行く予 定をしていた。そこの5階の我が事務所のベランダから、丁度、青山通りを進んできたパレ ードが右折して東宮御所への最後の道路を辿るシーンを、カメラを持って眺望しようと考え ていた。 しかし、デジカメやスマホでの遠距離撮影は不鮮明になるし、混雑する中を出かけるほどの 興味もなかったので、中止に。 それが正解だった。あの沿道の重層的警護と見物客の多さからして、現場では満足にお二人 の表情は拝見出来ないはず。テレビはその点、あらゆるアングルで臨場感溢れる実況をして くれる。 この日は、「御即位を祝う国民祭典」が行われた前日同様、雲一つない快晴。 天皇陛下(59)が、東宮御所改修中に利用していた都内にあるサロンの御理髪掛(ごりは つがかり)の人は、「陛下がいらっしゃる日はいつも快晴なので、「晴れ男ですね」と申し 上げたことがあった」と逸話を述べていたが、誠に結構なこと。国民の天子になるお方が 「晴れ男」だと、国も晴れ晴れとなる気がしてくる。天皇の運気と共に、皇后の雅子様のお 人柄もこの日の快晴を呼んでいるようだった。 それほど、雅子妃のパレードでの笑顔は美しく輝いておられた。 この様な「本来の雅子様」の笑顔は、ご成婚当時以来ではなかろうか。 沿道の観衆に応えて手を振る雅子妃が、笑顔の目尻に浮かんだ涙をそっと拭う場面は、心に 残った。 雅子様は、1985年(昭和60年)にハーバード大学経済学部を卒業後、東京大学法学部 3年に学士入学。その2年後の1987年(昭和62年)に「外務公務員上級試験」に合格 して外務省に入省。 1990年(平成2年)に北米局に勤務。 ここまでの独身時代の雅子様は、聡明で明るいキャリアウーマンそのもののイメージの女性。 そして、皇太子様と式典などの場面で対面する機会があり、1992年(平成4年)頃から は個別的に親しく歓談される機会が増えたとのこと。同時に皇太子のお妃(おきさき)選び に関するマスコミの報道もにわかに増え、複数の候補者の名前が浮上するとともに、一時は、 雅子様の名前は消えたかに見えた。 でも、その後のマスコミの報道によると、皇太子様の雅子様に対する思いは強く、結果、 1993年(平成5年)6月に「結婚の儀」を迎えるに至ったことは、周知のとおり。 だがその後、雅子様は徐々に体調を崩され、2003年頃からは「適応障害」(注・ストレ スが原因で起こる不安やうつなど、一般的な社会生活が出来なくなる症状)という病気に、 今日まで悩まされてこられた。 適応障害になりやすい人は、心が弱いとかストレスをためやすい人ではなく、「完璧主義者、 有能、真面目で、欠点の少ない人」に多いとのこと。無意識的に必死で環境に対応しようと する性格なので、知らない間にストレスが限界を超え、発症してしまうとのこと。 私は、雅子様が皇太子様とご結婚された当時から、「この人は、キャリアがすごいから自己 顕示欲が強く、負けん気が強い女に見られるかもしれないが、実際は、謙虚で人に合わせる 優しさを持った人ではなかろうか」と推察していた。 それは、時々、体調が良い時に皇太子とご一緒に被災地にお見舞いに行かれたり、養護施設 などを慰問されたりした際の、低い目線と物腰、温かな表情で十分に汲み取れることだった。 だから、適応障害と報道された時も「気の毒に。皇室という日本の中で一番格式を優先し、 人格を画一化し、ありとあらゆる人からの注視にさらされる。今までの世界と180度反対 の異世界に入られ、本当に大変だろう。自我を押さえ、言動もファッションや化粧も控えめ にし、周囲に気配りして合わせていかなくてはならない。雅子様の本来の明るく前向きで聡 明な性格が、いつになったら回復するのだろうか」と、ずっと心配してきた。 その長年の心配が、11月10日のパレードと前日の国民祭典での、まさに神々しいファッ ションと美しく輝く笑顔を見て、この日の青空のように爽やかに吹き飛んだ。それは驚異的 な出来事だと思った。 私は「雅子様は、皇后陛下という新たな環境に入り、今まで心身を固めていた重い鎧兜(よ ろいかぶと)から脱却出来たのだ。古い上着を脱ぎ棄てて、これからは新しいドレスを着て 生きていけると、本能的に感じられたのだろう。まさに皇后こそがふさわしいお人だったの だ」と推察した。 この夜、10数年ぶりにM氏に電話をして、話をした。 不意にM氏を思い出したのだ。 10数年前とは、私が三重県厚生連という医療団体(7つの病院経営)に常務理事として勤 務している頃。彼に東京から来てもらい、「来春の診療報酬改定のポイント」を各病院の院 長・事務長・医事担当者等に講演していただいた。 M氏とは今から25年ほど前、厚生労働省の疾病対策課で一緒に働いていた。 彼は医系課長補佐として、私は事務系課長補佐として疾病対策(がん・循環器病・難病・臓 器移植)の業務についていた。 1994年(平成6年)のある日、彼が名刺の整理をしていると「東井さん、これみて」と いって差し出したのが「小和田雅子」と記された名刺。 「えっ?これは昨年結婚された、皇太子妃の雅子さんの?」 「そう。外務省時代の。会議でお会いした時の」 ちょうど、雅子様が外務省で活躍中で、皇太子様のお妃候補の一人としてマスコミで報道さ れていた頃のこと。 M氏は、何回か業務で雅子様にお会いし、会話をされたとのこと。 彼はその後、柔軟な発想と達者な英語で国際派の医系技官として活躍されて退職したが、ユ ニークで好感を持てる人だった。 その彼と久々の電話。 「いやあ、今日のパレードを観ていて、Mさんのことを想い出しましたよ。 お祝いに駆け付けないの」 「彼女とは今や月とすっぽん、とてつもない彼我の差、下々の私からは遥かかなたの運上人 ですよ。一般庶民が下手なことを言ったら、公安に消されてしまいますよ」と冗談ぽく笑っ ていた。 そしてお互いに「テイアラが素敵だったね。良く似合ってましたね」と言って、電話を切っ た。 1か月前は、台風19号による大災害が発生し、各地に大きな被害を残した。 未だ今後の復旧の目途も立っていない地域が多く、現状は暗い。 そんな中、一条の光を与えてくれたお二人の即位。 私はこの11月10日が「令和」の始まりの様な錯覚に陥った。 さあこれから!と。 それもこれも雅子妃の復調の笑顔があってこそ(今後も途絶えないことを祈るのみ)。 快晴と笑顔は、人を明るくさせる。 多くの人が明るくなれば、社会は変わる。文化は向上する。 新天皇のこれまでの豊富なご経験と、雅子妃の語学力と人柄をもって、これから皇室外交を 積極的に展開していただきたいものだ。 天皇の政治利用を策略する「戦前回帰の政治家」さえ出てこなければ、日本の活路は、今後 の皇室外交で開かれると思う。 まさに「羽ばたけ、雅子妃!」とご期待する。 そんなことを思った11月10日の大安の日でした。 それでは良い週末を。 |