今年の年賀状に思う
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改めて、新年のお慶びを申し上げます。 今年の正月(注・1月のことだが、ここでは元日から5日まで)は晴天に恵まれ、穏やかな 毎日でした。 私は、在京の家族で、あるいは親族で集まって朝から酒食を共にし、私の孫や親類の子供た ちにお年玉を配り、近くの神社に初詣に出かけたり。だが、一日中孫を相手にしていると疲 労困憊。そこで夕食後は、もっぱら自室に閉じこもって、好きなDVD映画をゆっくり観賞。 また、新聞は昨年から宅配を止めていますが、年末年始に起こった保釈中のゴーン・元日産 会長の不法出国・逃亡事件や、アメリカとイランの紛争激化をテレビで観た後は、その詳細 な情況を知るため、コンビニに出かけて、箱根駅伝・ラグビー大学選手権(準決勝)・サッ カー天皇杯(決勝)記事満載のスポーツ新聞と共に、朝日と読売新聞を購入し、喫茶店で新 年の珈琲飲み初めをしながら精読したり。 3日には早くも青山の事務所に散歩がてら出かけ、途中、この11日に開催する「集い」で 配付する造花を大量に購入。その足で近所の乃木神社に参拝(社会の不安を反映してか、初 詣客が例年より多かった)。 そんな毎日、家での一人だけのくつろぎの時間に、この2か月間励行している「漢方(四逆 散合香蘇散)と、キャップ1杯の自家製にんにく酒をカップに入れ、お湯を注いで作った漢 方湯を飲みながら、年賀状に目を通したのです。 でも、年賀状の枚数は多くても、見る・読む・思う時間は、あっという間。 なぜか。 それは差出人の方に失礼な言葉ですが(貴方ではないですよ)、「ああ、そうかあ!」と心 が温かくなるような年賀状が少ないから。 こうした感じは、ここ数年で顕著になっている気がしています。 その原因は、パソコンや年賀状ソフトの普及により、宛名書きから挨拶文、イラスト・写真 などの作成・印刷が、すべて「筆まめ」などの年賀状ソフトで簡単に処理できるようになっ たからでしょう。 宛名書きはよしとして、裏面の挨拶文も殆どが「謹賀新年謹んで新春のお慶びを申し上げま す」などの定型文が印刷されているだけ。 ほぼ半数の賀状は、このような表も裏もパソコン処理で無機質。本人のぬくもりが伝わって こないのです。せめて「今年もよろしく」とかの自筆の添え書きがあれば、ちょっぴり感情 が伝わってくるのですが。 あるいは、「謹賀新年」の後に、少しだけ本人の言葉で、今年の抱負とか心情、現況などの メッセージが印刷されていたら、関心が向くのですが。 ただし、そのことをとやかく言う気持は、全くありません。 わかるのです。 特に65歳(前期高齢者)以上になってくると、年賀状を作成したり、印刷したりするだけ で一苦労。 ともかく、出すだけで精一杯。中にはいわゆる断捨離、終活で、年賀状の廃止や、ごく限ら れた人のみに絵手紙などを出す人も出てきています。 また、今回の年賀状で痛感したのは、これも差出人の方に失礼かもしれませんが、やたらに 家族、それも子供の写真や名前・年令を載せている賀状が増えたこと。私が、差出人のかっ ての上司で親しかったとか、結婚式の媒酌人をしたり、来賓挨拶をしたり、あるいは問題児 の子供の教育上の相談に乗ってやったりとか、双方の家族の面識がある関係だったりしたら、 「あっ、去年生まれた子は、この子か」「ほう、もうこんなにしっかりした子になったのか」 との感慨も生まれますが。あるいは遠縁の方からの現況報告の賀状だったら「20年前に会 った時は5歳ぐらいで、人見知りしてピーピー泣いてばかりいた子が、こんなに堂々とした 成人になったのか」と、写真を見て感慨に耽ることも多々ありますが。 一番困るのは、直接関係ない子供や孫の写真を、それも親が一緒ではない単品だけで見せら れる場合。 「何て言えばいいのか・・・」と、違和感を持って戸惑います。 親はこの子が可愛いくて「見て見て!」という感じなのかも知れませんが。どうでしょう? 自分の子供や孫の顔を見たら「可愛いな」と親ばかの視線で捉えるでしょうが、いくら親し い友人や知人といえども、その人の子や孫では・・・。 私は、年に一度の貴重な賀詞交換の意味からしたら、本人のみ又は配偶者同伴との近影が一 番!と思っています。 たまにしか会えない人の表情や姿が映っているだけで、「俺と同じように加齢に伴って老け 顔になってきたが、雰囲気は元気そうで何よりだ」などと心が明るくなり、遠く離れていて なかなか会えない人でも、その人の表情を忘れずに1年間を送れるのですから。 私は、出来得るならば家族などに関した写真や文章などは、前述したように自分たちが今あ る家庭の健やかな現状を報告する意味から、学生時代の恩師や、子供たちが世話になってい る学校の先生や父兄、そして遠く離れている兄弟姉妹や広く遠縁の人も含めた親類筋に出す のが適切では、と思っています。 職場や仕事関係先などのフォーマルな関係の人には、別のヴァージョンの年賀状を出された ほうが、年始の挨拶としての賀状にふさわしいとも思うのですが。それがかなわない場合は、 昨年世話になった人や、日頃の先輩などの人には、せめて添え書きでご挨拶をしたほうがベ ター。 とかなんとか偉そうなことを書きましたが、私自身の今年の年賀状は、添え書き無しのもの が随分ありました。添え書きをしたのは、ほんの一握りの方。 数年前までは、600枚ぐらいを印刷し、せっせと添え書きをしていましたが。 3年前から「極力、年賀状の宛先を絞ろう。単なる儀礼的で出す人は削ろう」と決意し、 徐々に枚数を減らし、今年は350枚にしたのですが、それでも出す意欲があまり湧かない のです。 体力気力が低下してきたことは勿論ですが、それ以上に、前年の年賀状を見ながら書こうと しても、その人に何かを書きたいという意欲が薄くなり、どんどんパスしてしまったのです。 今年の年賀状は、そのようなことから「失礼をしてしまった人が、だいぶいるな・・」と、 忸怩たる思いが残りました。 しかし、今年も変わらずに送っていただいた方には、すべからく「今年もありがとう」とい う気持なのです。 過年、年賀状についてのエッセイをこのHPで書きました。 その時に例示的に紹介したお二人の、今年の年賀状を紹介し、このエッセイを締めます。 ・1970年の大阪万博で知り合い、それ以降、年賀状の交換を続けている「ふじかわ健」 氏(ビクターレコード歌手)の賀状。今年で50年目。 マイクを持って微笑んでいる写真。謹賀新年等の印字。そして添え書き。 「2回目の大阪万博。今昔の感がありますね」 ・私が38歳で、厚生省保健医療局企画課指導係長の時、上司の企画課長だった羽毛田信吾 氏(元 宮内庁長官)の賀状。賀状を交換してから今年で35年目。 「謹んで新年のお慶びを申し上げます等の印字。丸々とした(羽毛田氏のような?)ネズミ のイラスト。そして添え書き。 「お元気ですか。勤め半分、畑半分で、のんびりやっています。 一月に役にも立たないエッセーもどきを出版する予定です」 お二人とも毎年、宛名書きも万年筆の自筆。 ご立派!の一言です。 それでは今年もよろしくお願いいたします。 良い1年に致しましょう! |