早稲田通りを歩いて(1)
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先日、久し振りに早稲田界隈をぶらついてきました。 30代の頃までは、高田馬場駅から早稲田大学の文学部キャンパスがある馬場下(現・地下 鉄「早稲田」駅の上)までの早稲田通りを、都営バス(スクールバス)には乗らず、よく歩 いたものです。 そして一杯やるときは、高田馬場の駅前から明治通りとの交差点までのゾーンにある、行き つけの店に飛び込んで、最終電車の時間まで飲み語っていたものです。 また、本を書うときや喫茶店に入るときは、明治通りとの交差点から大隈講堂(早大正面前) までのゾーンにある店に入っていました。(この後の文章には、昔という言葉が頻繁に(安 易に)出てきますが、昔とは私が30代の終わり頃(昭和63年頃)までのこと。まさに昭 和の時代のことです。) 先日の連休明けの14日(火)。 久し振りに早稲田通りを歩いてきました。 青山の事務所で、11日(土)に開催した法人の集い(講話+新年会)の会計整理等を行っ てから、ドアに鍵をかけて昼食を取りに外に出たのですが「ああ、今年もまたワンパターン の昼食か・・」と思ったら、急に食欲がなくなってしまったのです。 「たいして食いたくないものを、無理して食うのはやめよう」と引き返そうと思ったのです が、「でも、何か旨いものを食べておきたい」という気が起き、しばし考えた結果、踵を返 して銀座線に飛び乗り、渋谷に出てJRで高田馬場に向かったのです。 行き先は、早稲田通りと明治通りの交差点から早大方向に少し行った、インド大使館近くの 「あまから食堂」。 これは店名ではなく、昔ながらの和菓子(みたらし団子、おはぎ、いなりずし、豆大福等) を店頭販売し、店内ではこれも昔ながらのシンプルなラーメンやタンメン程度の食事を提供 する店なので、私が勝手につけた呼び名です(店舗名はいまだに知りません)。 若い頃から時々店に行っては、タンメンとおはぎ2個を食べていたのですが、これらが急に 頭に浮かんだのです。 老舗の蕎麦や寿司や天ぷら、名店のステーキや中華や和食。 それらより「食べたい!」と思ったのは、何よりもこのタンメンとおはぎだったのです。あ るいは紅ショウガが乗ったソース焼きそばと豆大福とか。 高田馬場駅から、早稲田通りを歩いてみると、どこもここも中国や香港、台湾、韓国、ネパ ール、インド料理店がひしめいています。 駅前を行き来する人たちの群れは、大半が中国人か韓国人。 日本人の若者も、最近はどんどん韓国や中国のファッションや髪型、メイクを真似ているせ いか、中国人や韓国人に似てきているように感じます。 この街も「新宿化」「大久保化」し、中国人が多い池袋までのゾーンが、一帯一路化してき ているようです。 今の早大の学生には、外国人学生が約8000名もいるとのこと。 昔は全学で数十人もいなかったのでは? 学生街の雰囲気も、キャンパス内の雰囲気も激変していることでしょう。 しかし、明治通りを超えてからは、まだまだ昔ながらの日本の風景が残っている。 と思いきや、早稲田通り沿いは古い店舗が一掃され、軒並みにマンションに建て替えられて います。 かっては神保町の古本屋街と双璧をなした古本屋通りも、今や昔の木造二階建ての面影は全 く無く、残った店は、このマンションビルの1階に収容されての営業に(このビルのオーナ ーで、あるいは年金生活者で、古本屋は趣味程度でやっているのでは)。 この様に古いものが淘汰され、地域環境が激変する中、このあまから食堂のメニューも店内 の雰囲気も、全く「昭和の時代」そのままでした(外装は少し綺麗にした様子)。 老夫婦とお手伝いのおばちゃんが店を切り盛りしています。 時間も午後1時を過ぎていたせいか、客層も昔のまんまにジイジ、バアバが数人。 私は、昔と変わらない味と量に満足し、タンメンの720円と、おはぎ1個の130円の合 計850円を支払い、150円のお釣りを握って外に出たのです。 そして、ビルの店舗と化した古本屋を数店のぞき、50円の文庫本(本の装丁は新刊そのも の)を1冊買い求め、馬場下の文学部キャンパスに向かって、歩いて行ったのです。 次に使う、お釣りの残りの100円玉を握りながら。 少し長くなってきたので、この続きは次回にでも。 それでは良い週末を。 |